太寺廃寺跡
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古代の太寺廃寺跡(たいでらはいじあと)は、高家寺の境内と重複する。寺域は約100メートル四方と推定される。主要伽藍は法起寺式伽藍配置と推定され、現在は塔跡の土壇が遺存するが、塔跡以外の伽藍は確認されていない。現在の高家寺本堂前の参道は、太寺廃寺の推定中門からのびる参道と重複する。遺構の詳細は次の通り。 塔 釈迦の遺骨(舎利)を納めた塔。高家寺境内の南東隅において東西12メートル・南北8メートル・高さ約1.5メートルの土壇を残す。2016-2017年度(平成28-29年度)に発掘調査が実施されている。 基壇は版築により、一辺10.8メートルを測る。基壇上建物は三間四方。原位置をとどない心礎と、原位置をとどめた側柱の礎石3個が遺存する。心礎は花崗岩製で、長辺1.15メートル・短辺0.95メートルを測り、中央には直径24センチメートル・深さ8センチメートルの円形の舎利孔が穿たれる。側柱礎石も花崗岩製で、直径0.65メートルの柱座が造り出される。 2002年(平成14年)の高家寺本堂の北約100メートルの地点における発掘調査では、竪穴建物跡・掘立柱建物跡・鋳造炉跡・区画溝が検出されている。また同年の高家寺本堂の北縁改修に伴う発掘調査では、僧房等に相当する柱穴列が検出されている。さらに2008-2010年(平成20-22年)の高家寺本堂の東側での発掘調査では、築地塀の雨落溝と想定される溝のほか、工房等の遺構が検出されている。 寺域からの出土品としては、白鳳期から江戸時代にいたる瓦がある。創建期の軒丸瓦は単弁八葉蓮華文で、川原寺(奈良県明日香村)の創建期瓦と共通するほか、繁昌廃寺跡(加西市)・広渡廃寺跡(小野市)の瓦と類似する。軒平瓦のうちでは、左右対称の唐草文の上外区に菱形文、下外区に線鋸歯文を巡らせたものが特徴的に認められており、大官大寺跡(奈良県橿原市)の瓦と共通する。瓦や遺構の内容によれば、白鳳期の7世紀後半頃の建立と推定される。 なお、「太寺廃寺」の寺名は「太寺」の地名を用いてつけられたものである。「太寺」の地名は、江戸時代初期の『慶長播磨国絵図』に「たい寺」、宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』に「太寺村」と見え、江戸時代を通じて認められる。その由来として、高家寺を「タカイエデラ」と読んだのが「タイデラ」に訛ったとする説、本尊の薬師如来は太山寺から譲り受けたと伝えることから太山寺の分家として「太寺」となったとする説などがある。 塔礎石非原位置の心礎、原位置の側柱礎石3個以外は推定位置を標示。 塔心礎 軒平瓦明石市立文化博物館展示。
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