太寺廃寺跡とは? わかりやすく解説

太寺廃寺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 23:22 UTC 版)

高家寺 (明石市)」の記事における「太寺廃寺跡」の解説

古代の太寺廃寺跡(たいでらはいじあと)は、高家寺境内重複する寺域は約100メートル四方推定される。主要伽藍法起寺伽藍配置推定され、現在は塔跡土壇遺存するが、塔跡以外の伽藍確認されていない現在の高家寺本堂前の参道は、太寺廃寺推定中門からのびる参道重複する遺構詳細次の通り。 塔 釈迦遺骨舎利)を納めた塔。高家寺境内南東隅において東西12メートル南北8メートル・高さ約1.5メートル土壇を残す。2016-2017年度(平成28-29年度)に発掘調査実施されている。 基壇版築により、一辺10.8メートル測る基壇建物三間四方原位置をとどない心礎と、原位置とどめた礎石3個が遺存する。心礎花崗岩製で、長辺1.15メートル短辺0.95メートルを測り、中央には直径24センチメートル深さ8センチメートル円形舎利孔が穿たれる。側柱礎石も花崗岩製で、直径0.65メートル座が造り出される2002年平成14年)の高家寺本堂の北約100メートル地点における発掘調査では、竪穴建物跡掘立柱建物跡鋳造炉跡・区画溝が検出されている。また同年高家寺本堂の北縁改修に伴う発掘調査では、僧房等に相当する柱穴列が検出されている。さらに2008-2010年平成20-22年)の高家寺本堂東側での発掘調査では、築地塀落溝と想定される溝のほか、工房等の遺構検出されている。 寺域からの出土品としては、白鳳期から江戸時代にいたる瓦がある。創建期の軒丸瓦単弁八葉蓮華文で、川原寺奈良県明日香村)の創建期瓦と共通するほか、繁昌廃寺跡(加西市)・広渡廃寺跡小野市)の瓦と類似する軒平瓦のうちでは、左右対称唐草文の上外区菱形文、下外区に線鋸歯文巡らせたものが特徴的に認められており、大官大寺跡奈良県橿原市)の瓦と共通する。瓦や遺構内容によれば白鳳期7世紀後半頃の建立推定される。 なお、「太寺廃寺」の寺名は「太寺」の地名用いてつけられたものである。「太寺」の地名は、江戸時代初期の『慶長播磨国絵図』に「たい寺」、宝暦12年1762年)の『播磨鑑』に「太寺」と見え江戸時代通じて認められる。その由来として、高家寺を「タカイエデラ」と読んだのが「タイデラ」に訛ったとする説、本尊薬師如来太山寺から譲り受けた伝えることから太山寺分家として「太寺となったとする説などがある。 塔礎石原位置心礎原位置の側柱礎石3個以外は推定位置標示。 塔心礎 軒平瓦明石市立文化博物館展示

※この「太寺廃寺跡」の解説は、「高家寺 (明石市)」の解説の一部です。
「太寺廃寺跡」を含む「高家寺 (明石市)」の記事については、「高家寺 (明石市)」の概要を参照ください。

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