大官大寺跡
名称: | 大官大寺跡 |
ふりがな: | だいかんだいじあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 奈良県 |
市区町村: | 高市郡明日香村 |
管理団体: | 明日香村(大11・5・23) |
指定年月日: | 1921.03.03(大正10.03.03) |
指定基準: | 史3 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 香久山ノ南麓約十町ノ處ニ広大ナル金堂阯及ビ塔阯ノ土壇現存シ附近ヨリ古瓦ヲ出ス |
大官大寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)
平城京遷都に従い本寺も新都へ移り(→#大安寺)、現地は遺構が残ることとなった。後に編まれた『釈日本紀』には、寺号の読みを「だいくわんだいじ」とあり、「おほつかさのおほてら」という読みも付されている。文字通り「官立の大寺」という意味である。寺跡は年月を経たが、この地には堂跡と塔跡の土壇が残り、ここが大官大寺の跡であるという伝承が近世からあった。 幕末から明治初期にかけて、岡本桃里という人物が寺跡を調査した際には、堂跡には45個の礎石、塔跡には心礎と34個の礎石が残っていたが、1889年(明治22年)から始まった橿原神宮の造営工事のために礎石はあらかた持ち出されてしまった。なお、堂跡の土壇については、付近の小字名を「コードー」と言ったことから、講堂跡と見なされていたが、後年の発掘調査の結果、正しくは金堂跡であることが判明している。1904年(明治37年)に本沢清三郎が調査した際には数個の礎石を残すのみであったが、礎石を抜き取った跡の穴は残っていた。本沢が作成した見取り図によると、堂は桁行9間、梁間4間、塔は方5間であった(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
※この「大官大寺跡」の解説は、「大安寺」の解説の一部です。
「大官大寺跡」を含む「大安寺」の記事については、「大安寺」の概要を参照ください。
- 大官大寺跡のページへのリンク