雄山荘
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雄山荘(ゆうざんそう、大雄山荘)は、神奈川県小田原市下曽我にあった別荘である。
概要
1930年(昭和5年)春、東京の印刷会社社長・加来金升が接客用の別荘として建築した[1]。
太平洋戦争中、太宰治の愛人・太田静子が親類のつてで、実母とともにこの雄山荘に疎開してきた[2]。静子がここで暮らした日々を記した日記は、太宰の小説『斜陽』の元になった[2]。1947年(昭和21年)2月21日に太宰が来訪し、24 日まで滞在[2]。この間に、静子が後の太田治子を身ごもった[3]。
1951年(昭和26年)に静子が去り、最後の借主となった俳人・林周平が1993年頃に去って以来、雄山荘は無人のままにされていた。太宰ファンらが4,000人の署名を集め、小田原市に雄山荘の買取と保存を要望したが、当時の所有者に売却の意志が無く、また、建物自体も老朽化が激しかったために叶わなかった[2]。
2009年(平成21年)12月26日早朝、原因不明の出火により雄山荘は全焼した。小田原署は不審火の疑いもあると見て調べている[4][5]。
脚注
- ^ “『斜陽』に描かれた建築空間の考察”. 西島建築設計工務. 2016年3月4日閲覧。
- ^ a b c d 「政界・文豪ゆかりの文化財次々焼失…施錠なく」『MSN産経ニュース』産業経済新聞社、2009年12月26日。オリジナルの2009年12月29日時点におけるアーカイブ。2025年5月4日閲覧。
- ^ 「【著者に聞きたい】太田治子さん『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』」『MSN産経ニュース』産業経済新聞社、2009年11月1日。オリジナルの2009年11月3日時点におけるアーカイブ。2025年5月4日閲覧。
- ^ 「太宰治ゆかりの雄山荘が全焼 不審火の疑い」『MSN産経ニュース』産業経済新聞社、2009年12月26日。オリジナルの2009年12月29日時点におけるアーカイブ。2009年12月26日閲覧。
- ^ 「雄山荘焼失「歴史的建物なくなり残念」と落胆の声」『MSN産経ニュース』産業経済新聞社、2009年12月26日。オリジナルの2009年12月29日時点におけるアーカイブ。2025年5月4日閲覧。
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