天草コレジオ跡地論争について・研究史
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「コレジオ」の記事における「天草コレジオ跡地論争について・研究史」の解説
天草でのコレジオの位置については、本渡、河浦など諸説あり、論争が続いてきた。 天草伊豆守種元の本戸(本渡)城下やその周辺にあったとするこれまでの説に対し、1958年に今村義孝が新聞に、また鶴田倉造が『熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表し、論争に火がついた。それによるとルイス・フロイスの『日本史』など外国文献から当時、宣教師たちが指す天草は本渡ではなく、河内浦(河浦)であって「天草コレジオ」は河内浦に天草久種(ドン・ジョアン)が誘致したとする説である。 1985年には本渡町本戸馬場の河内山ため池から十字架を刻んだ石碑が見つかる。天草郷土資料館の錦戸宏館長がコレジオ跡地ではないかと新聞に発表した。錦戸館長によると、(1)『天草郡資料』の天草家乗誌第4号知行目録類の本砥(本渡)百姓中にあてた小西行長花押の書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知に従え」とある。(2)1590年の日本イエズス会第2回総協議会で「天草の全諸島の中央に位置する本渡の城下に本拠を置く」との決定事項がある。このことから、天草久種は小西行長の家臣団に組み込まれた後、河浦から本渡に中心が移り、本渡にコレジオができたのではないかと主張した。 河浦説の候補地だった旧河浦中学校校庭は洪水被害が頻繁に起こり、ここは不適だと撤回。その後、河内浦古城山の天満宮境内や一町田の安養寺(真宗)ではないかと推定。安養寺は1990年、寺社再建のため境内を整地したところ、河内浦城から出土したものと同じ中世の土師器や青磁、白磁の破片などが出土したが、キリシタン遺物は出なかった。また墓地に島原・天草の乱後のものだが1667(寛文7)年没と刻まれたキリシタン様式の墓碑と推定される青木源太夫の墓もある。 一方、本渡説の候補地は、本渡町の丸尾ヶ丘や本渡町本戸馬場の河内山ため池付近(西の久保公園)などがある。東向寺出土とされていた天草郷土資料館旧蔵「コレジオの鐘」は同館の調査によると、東京国立文化財研究所の化学的分析で、鉛同位体比測定し、東アジア以外で作られたとの結果が出たが、製作年代が不明のため、イギリスの国立博物館でビクトリア&アルバート博物館に鑑定を依頼したところ19世紀のもので、1840年~1860年に作られた青銅の鋳物であり、天草コレジオとは一切、関係がないことが分かった。後に錦戸も東向寺出土を否定している。 本渡町の丸尾ヶ丘と河浦支所横の公園(旧河浦中学校校庭)には、それぞれ天草コレジオ跡をうたう記念碑が建てられているが、天草市は「コレジオはここ、という公式見解は持っていない」との立場を示した。 しかし、2001年6月、長崎市にある日本二十六聖人記念館の結城了悟元館長が発行した冊子『天草コレジヨ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父の記事の訳文を示し、河浦(河内浦)にコレジオがあったとして「疑問の余地がない」と発表。しかし出典先に記事はなく、原文の公開を求めても「史料を提供してくれた友人が亡くなり、連絡が取れない」との理由で、史料は公開されないまま2008年、結城は亡くなる。 その11年後の2019年11月から、インターネット放送局の天草テレビが調査報道の過程で、その古文書は大英図書館に所蔵されていることを突き止めた。東京大学史料編纂所の記録によると1988年頃にはすでに大英博物館ではなく、大英図書館が所蔵していたことも分かった。写真を入手し、慶應義塾大学の高瀬弘一郎名誉教授に解読を依頼。2020年2月9日、地元の研究家らで作る天草キリシタン研究会が西日本新聞に発表した。高瀬の訳によると「天草の内のカワチノウラ(河内浦)という地では彼らは慰められた。そこは迫害の時に、永年にわたりコレジオがひっそりと存在した地であった。」と書かれている。所在地について現在の熊本県天草市河浦にあったことを示す史料で、具体的な地名について言及した文書の原本が確認されたのは初めてとなる。また2020年10月発行の天草テレビ出版・編著『天草キリシタン10の謎』で原本の写真が初めて公開された。 さらに天草テレビは調査報道の過程で2020年3月にオーストリアのウイーンにあるオーストリア国立図書館で新史料を発見。天草キリシタン研究会で2020年4月20日、同局の番組と、さらに5月11日に西日本新聞、同年6月4日の朝日新聞で発表した。この史料はイエズス会宣教師のルイス・ピニェイロが1617年にスペインのマドリッドで出版したスペイン語の書物「われわれの聖信仰が日本諸王国において得た成果の報告」だ。巻末にはイエズス会のパードレたちが日本に所有していたカザ(修院)、レジデンシア(駐在所)、および迫害で失われたもの、その移動についての一覧の中に「肥後国、河内浦」には「コレジオ」があったと書かれている。一方、本渡は栖本、久玉、大矢野と同様にレジデンシアがあったことが書かれており、本渡にコレジオがあったとは書かれていない。高瀬弘一郎は「天草コレジオが河内浦に所在した証拠の一つになる。跡地論争に関してはもはや議論の余地はない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年度イエズス会年報』と、ルイス・ピニェイロの著書この2つの史料は河浦説を決定づけ、60年以上続いた跡地論争に終止符を打った。 また、1959年7月『熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表した天草キリシタン史研究家で熊本県宇城市の鶴田倉造が2020年4月に老衰のため熊本市内の病院で死去した。享年97歳だった。天草テレビは「面会した家族が証拠発見の知らせを伝えると、指でピースサインをした後『ありがとう・・』と微かな声で喜びを伝えた。そして2つ目の証拠が発見されたことを伝える天草テレビの番組が公開された2日後、結果を見届けたように息を引き取った。」と伝えている。 今後はこれを裏付ける国内史料や考古学の遺物や遺構の発見が鍵となる。
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