天草コレジオ跡地論争について・研究史とは? わかりやすく解説

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天草コレジオ跡地論争について・研究史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:54 UTC 版)

コレジオ」の記事における「天草コレジオ跡地論争について・研究史」の解説

天草でのコレジオ位置については、本渡、河浦など諸説あり、論争続いてきた。 天草伊豆守種元の本戸本渡城下その周辺にあったとするこれまでの説に対し1958年今村義孝新聞に、また鶴田倉造が『熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表し論争に火がついた。それによるとルイス・フロイスの『日本史』など外国文献から当時宣教師たちが指す天草本渡ではなく河内浦(河浦)であって天草コレジオ」は河内浦に天草久種(ドン・ジョアン)が誘致したとする説である。 1985年には本渡町本戸馬場河内山ため池から十字架刻んだ石碑が見つかる。天草郷土資料館錦戸館長コレジオ跡地ではないか新聞発表した錦戸館長によると、(1)『天草郡資料』の天草家乗第4号知行目録類の本砥(本渡百姓中にあてた小西行長花押書簡に「天草殿(現河内浦城主)を本砥(本渡)の代官にしたからその下知従え」とある。(2)1590年日本イエズス会第2回協議会で「天草の全諸島中央位置する本渡城下本拠を置く」との決定事項がある。このことから、天草久種小西行長家臣団組み込まれた後、河浦から本渡中心移り本渡コレジオができたのではないか主張した。 河浦説の候補地だった旧河浦中学校校庭洪水被害頻繁に起こり、ここは不適だと撤回その後河内古城山天満宮境内や一町田安養寺真宗ではないか推定安養寺1990年寺社再建のため境内整地したところ、河内浦城から出土したものと同じ中世土師器青磁白磁破片などが出土したが、キリシタン遺物は出なかった。また墓地島原・天草の乱後のものだが1667(寛文7)年没と刻まれキリシタン様式墓碑推定される青木源太夫の墓もある。 一方本渡説の候補地は、本渡町丸尾ヶ丘や本渡町本戸馬場河内山ため池付近(西の久保公園)などがある。東向寺出土とされていた天草郷土資料館旧蔵コレジオの鐘」は同館の調査によると、東京国立文化財研究所化学的分析で、鉛同位体比測定し東アジア以外で作られたとの結果出たが、製作年代不明のため、イギリス国立博物館ビクトリア&アルバート博物館鑑定依頼したところ19世紀のもので、1840年1860年作られ青銅鋳物であり、天草コレジオとは一切、関係がないことが分かった。後に錦戸東向寺出土否定している。 本渡町丸尾ヶ丘と河浦支所横の公園(旧河浦中学校校庭)には、それぞれ天草コレジオ跡をうたう記念碑建てられているが、天草市は「コレジオはここ、という公式見解は持っていない」との立場示した。 しかし、2001年6月長崎市ある日二十六聖人記念館の結城了悟館長発行した冊子天草コレジヨ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父記事訳文示し、河浦(河内浦)にコレジオがあったとして「疑問余地がない」と発表。しかし出典先に記事はなく、原文公開求めても「史料提供してくれた友人亡くなり連絡取れない」との理由で、史料公開されないまま2008年結城亡くなる。 その11年後2019年11月から、インターネット放送局天草テレビ調査報道過程で、その古文書大英図書館所蔵されていることを突き止めた東京大学史料編纂所記録によると1988年頃にはすでに大英博物館ではなく大英図書館所蔵していたことも分かった写真入手し慶應義塾大学高瀬弘一郎名誉教授解読依頼2020年2月9日地元研究家らで作る天草キリシタン研究会が西日本新聞発表した高瀬の訳によると「天草内のカワチノウラ(河内浦)という地では彼らは慰められた。そこは迫害時に永年にわたりコレジオがひっそりと存在したであった。」と書かれている所在地について現在の熊本県天草市河浦にあったことを示す史料で、具体的な地名について言及した文書原本確認されたのは初めてとなる。また2020年10月発行天草テレビ出版編著天草キリシタン10の謎』で原本写真初め公開された。 さらに天草テレビ調査報道過程2020年3月オーストリアウイーンにあるオーストリア国立図書館新史料を発見天草キリシタン研究会で2020年4月20日同局番組と、さらに5月11日西日本新聞同年6月4日朝日新聞発表した。この史料イエズス会宣教師のルイス・ピニェイロが1617年スペインマドリッド出版したスペイン語書物「われわれの聖信仰日本諸王国において得た成果報告」だ。巻末にはイエズス会パードレたちが日本所有していたカザ(修院)、レジデンシア(駐在所)、および迫害失われたもの、その移動についての一覧の中に肥後国河内浦」には「コレジオ」があったと書かれている一方本渡本、久玉、大矢野と同様にレジデンシアがあったことが書かれており、本渡コレジオがあったとは書かれていない高瀬弘一郎は「天草コレジオ河内浦に所在し証拠一つになる跡地論争に関してはもはや議論余地はない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父の『1601年イエズス会年報』と、ルイス・ピニェイロの著書この2つ史料は河浦説を決定づけ、60年上続いた跡地論争終止符打ったまた、1959年7月熊本史学』に「天草学林河内浦説の提唱」を発表した天草キリシタン研究家熊本県宇城市鶴田倉造が2020年4月老衰のため熊本市内の病院死去した享年97歳だった。天草テレビは「面会した家族証拠発見知らせ伝えると、指でピースサインをした後『ありがとう・・』と微かな声で喜び伝えた。そして2つ目の証拠発見されたことを伝え天草テレビ番組公開され2日後結果見届けたように息を引き取った。」と伝えている。 今後はこれを裏付ける国内史料考古学遺物遺構発見が鍵となる。

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