天草住民の牛肉食
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 01:57 UTC 版)
天草の「異宗」吟味に踏み切るきっかけとなったのは、享和3年(1803年)末に起こった2件の牛の屠畜事件で、今富村の虎右衛門・伊八・広蔵・彦七・太平次が吟味の際に詳しく取り調べられている。吟味の際に、信徒たちは「異宗」の祭礼で四足または二足の動物の肉を用いると答えており、その肉には牛肉か入手できなければ魚肉を使っていたという。 天草崩れの7年後の文化9年(1812年)にも、牛肉食をしたとして「異宗回心者」の高浜村の重作が吟味を受けている。庄屋・大庄屋による取り調べでは「異宗」との関係が疑われたが、そうなると信徒が改心したことで消滅したはずの「異宗」がまだ存在していることになり、再吟味を始めなければならなくなる。そのため、牛肉食は現代でいうところのハンセン病治療のための「薬喰(くすりぐい)」だったとして「異宗」とは無関係と島原藩に報告している。
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