南北アメリカ旅行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:26 UTC 版)
「アレクサンダー・フォン・フンボルト」の記事における「南北アメリカ旅行」の解説
1796年11月、母がガンでなくなった。55歳であった。フンボルトは、家庭との絆から解放されるとともに、遺言によって相当額の遺産を相続した。1797年2月に鉱山の職を辞任し、本格的な探検調査に乗り出した。彼の計画は、兄一家とともにイタリア旅行し、火山を研究し、そしてパリで科学調査の機器を購入し、イングランドで西インド諸島行きの舟を捕まえることであった。6月の初め、まずザクセンの首都ドレスデンに向かった。そこでフォレル男爵(スペイン、マドリード駐在ザクセン大使)の兄弟と知り合うことになった。ナポレオン軍が一進一退を繰り返しおり、イタリアの情勢は不安定であったが、10月にはカンポ・フォルミオ条約が結ばれた。フンボルトはウィーンで探検に役立つ諸科学を学習していた。 スペイン首相の後援を受けて、当時のスペイン領アメリカへ向かうことになった。カナリア諸島のテネリフェ島で流星雨の観察を行い、その周期性の研究は今日の天体観測の基礎となった。 さらに南米大陸へと渡り、オリノコ川とアマゾン川が支流で結ばれていると断定し、様々な動植物の調査を行った。そしてコロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、チンボラソ火山の山頂まで400mの地点まで到達し、リマに到達した。このとき、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことにちなんで、フンボルト海流の名がつけられた。 これらの体験を活かし、従来は互いに独立していると思われていた、動植物の分布と緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績ともいえる大著『コスモス』が書かれた。 南米からの帰国後、フンボルトはイタリアのベスビオ火山の調査研究を行い、1807年にベルリンで『自然の風景』を出版、それまでの研究成果をまとめるためにパリに居を定めた。この頃になると、彼の名声はヨーロッパ中に轟き、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われた。 既に1794年までにフンボルトは、全ての生命の形態と自然環境との関係を説く『世界の自然』を考えていたという。彼は熱帯アメリカの山地における調査によって自然地理学と地球物理学の基礎を築いた。フンボルトは地形、気象、地磁気の研究に様々な化学的器具を用い、植物とその環境との関係を調査して6万種に及ぶ膨大な標本を収集したが、その中には数千種に及ぶ新しい種や属が含まれていた。この時、電気ウナギが馬を感電させたという記録も残している。 フンボルトの写実的記録が、科学分野に大きな進展をもたらした事は確実で、等温線図の作成(1817年)により、彼は様々な国の気候条件を比較する考えや方法を示し、また初めて海抜高度の増大に伴う気温の減少率を明らかにし、あるいは熱帯性暴風雨の起源を追求して高緯度での大気の擾乱を支配する複雑な法則を発見する手がかりを得た。さらに植物学に関する彼の論文は、有機体の分布が異なる自然条件に影響されるという、当時としては全く新しい考えに基づいたものであった。また、地球の磁力の強さが極から赤道に向かって減少することを発見したのもフンボルトであった。
※この「南北アメリカ旅行」の解説は、「アレクサンダー・フォン・フンボルト」の解説の一部です。
「南北アメリカ旅行」を含む「アレクサンダー・フォン・フンボルト」の記事については、「アレクサンダー・フォン・フンボルト」の概要を参照ください。
- 南北アメリカ旅行のページへのリンク