南北アラブの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 19:32 UTC 版)
古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ古代南アラビア語と古代北アラビア語、南アラビア文字と古代北アラビア文字など異なる言語や文字、文化を持っていた。両者はイスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して南アラブとの親善関係を保つことに努めた。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした。
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