前史2:オランダ植民政府によるスマトラ横断鉄道建設のための調査、研究
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「スマトラ横断鉄道」の記事における「前史2:オランダ植民政府によるスマトラ横断鉄道建設のための調査、研究」の解説
日本軍がスマトラを侵略する1942年以前、当時の鉄道路線の東の終点であるムアロからさらに線路を東海岸のシア川の川港ペカンバルまで延長することをオランダが調査、検討したというのが定説になっている。オランダ人ジャーナリストのヘンク・ホビンガ (Henk Hovinga) などは日本軍はその計画をスマトラ占領後に何らかの形で入手し、建設に取りかかったと主張する。インドネシアのUNIKA(スギジャプラナタ・カトリック大学)の講師で鉄道史に詳しいジャージョノ・ロハールジョ (Tjahjono Rahardjo) も日本軍がオランダの計画を手に入れ、ほとんどそのまま踏襲したという意見だ。また、サワルントからムアロへの路線は、東海岸への路線の一部として作られたが、ムアロまでで中断していたという説もある。 ムアロからペカンバルまで、鉄道を含め、何らかの交通路建設に向けた調査、研究は1870年代からたびたび実施されたのは事実だ。ムアロから人跡未踏のジャングルに分け入り、東海岸へのルートを最初に探索したのは、オンビリンやサワルントの石炭鉱床を発見、開発したことで知られる地質学者、デ・グリーヴ (Ir.Willem Hendrik de Greeve) だと言われている。1871年に調査報告を出したが、翌1872年、調査中にクアンタン川の急流に飲まれ溺死した(彼の墓はクアンタン川のほとりに今でもひっそりと残っている)。 デ・グリーヴはムアロ=ペカンバル鉄道を最初に提案した人物とも言われるが、長年にわたりこの鉄道を研究しているジェフリー・ファレル (Jeffery Farrell) によれば、デ・グリーヴの提案に基づくとされる1907年に出版された地図を見ると、鉄道の延長はせいぜいドゥリアン・ガダンまでで、そこからは積み荷は船に積み替え、インドラギリ川を下り、マラッカ海峡に出ることになっていた。 植民政府はデ・グリーヴの説く交通網の開発、特に石炭の輸送ルートの開発の必要性を認め、1873年に本国で鉄道建設の経験がある技師、クルイセナエル (JL Cluysenaer) らに鉄路建設の可能性についての探査を依頼した。クルイセナエルは1875年から3回に分け、報告書を出版した。しかし、彼の提言は膨大なコストが予想され、現実に移されることはなかった。 1890年代にはやはり鉱山技師のイジェルマン (Dr Jan Willem Ijzerman) が300 kmにわたる実地探査を行っている。これらの技師がやがて日本軍の手で建築される鉄道の原型を提案をしたといわれているが、それが具体的にどんな提案だったのか、それは未だに解明されていない。 鉄道の可能性が具体的に言及されるのは1906年になってからのことだ。ジェフリー・ファレルによれば、その提案をしたのは、タペイから奥へ、日本軍占領時代に第14捕虜収容所がおかれたあたりに採掘権を持っていたスイス生まれ、シンガポール在住の実業家、ブランチェリ (Hans Caspar Bluntschli) だ。彼はムアロから自分のヤマ近辺へ鉄道を60 km延長するよう植民政府に陳情し、その後、その路線をペカンバルまで延長するよう提案した。この実業家は日本軍の鉄道建設にもっと決定的な役割を果たしたとする研究者もいる。しかし、当時の植民政府の内部文書によれば、ブランチェリは信用のおける人物とは見られていなかったようだ。 その後、鉄路が再び注目されるのは1920年代になってからのことだ。植民政府から新たな調査を命じられたのはニヴェル (Ir. W.J.M. Nivel) で、実地測量のあと、1927年に詳細な報告書を発表した (Staatsspoorwegen no.19 tahun 1927)。しかし、難工事には膨大なコストが見込まれ、石炭の輸送だけで償却することがおぼつかず、平時においては特に東海岸への輸送を正当化する理由もなく、植民政府が躊躇するうち、世界経済は大恐慌に突入し、必要な投資を調達することもできず、横断鉄道計画はお蔵入りしてしまったと言われている。 日本軍はスマトラ侵略以前もしくは侵略以後にオランダの鉄道建設計画を入手し、それを踏襲したと信ずる研究者のひとりはヘンク・ホビンガだ。彼は著書の中で、オランダの路線計画を日本軍にもたらしたのは、戦時中、シンガポールの植物園の管理をしていた田中舘秀三の秘書をしていたブランチェリの娘だとする、やや荒唐無稽な説を展開する。ホビンガによると、ブランチェリと田中舘はスマトラで1942年6月16日に顔を合わせ、その時に鉄道計画が渡されたと言うが、そもそも、この日、田中舘はすでにスマトラにはいなかったというのが通説であり、ホビンガの説を裏付ける史料の提示が望まれる。 しかし、陸軍がスマトラ侵攻前から鉄道の建設を企図し、調査をしていたのは間違いないようで、戦後、第一復員局がまとめた『スマトラ軍政の概要』は「第二十五軍未だスマトラ移駐前既に計画し諸調査を遂げありたり」としている。ここで言う「諸調査」が一体どんなものだったのか。日本軍はオランダの計画をどこまで知っていたのか、それを具体的に裏付ける資料、証言は出ていない。 そもそも、この「オランダの鉄道計画」とはどんなものだったのか。本当に、ムアロ=ペカンバル路線が企画されたのか。この辺りもまだ謎に包まれたままだ。 しかし、とどのつまり、ムアロとペカンバルという2点を鉄路で結ぶ、石炭を運ぶ鉄路を作ろうとする。山や川、谷、勾配など、地形の制約を考慮すれば、だれがやっても似たようなルートになるのではないかという研究者もいる。このあたりが実は真実なのかもしれない。
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