前史2:オランダ植民政府によるスマトラ横断鉄道建設のための調査、研究とは? わかりやすく解説

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前史2:オランダ植民政府によるスマトラ横断鉄道建設のための調査、研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:09 UTC 版)

スマトラ横断鉄道」の記事における「前史2:オランダ植民政府によるスマトラ横断鉄道建設のための調査、研究」の解説

日本軍スマトラ侵略する1942年以前当時鉄道路線の東の終点であるムアロからさらに線路東海岸シア川の川港ペカンバルまで延長することをオランダ調査検討したというのが定説になっているオランダ人ジャーナリストのヘンク・ホビンガ (Henk Hovinga) などは日本軍はその計画スマトラ占領後何らかの形で入手し建設取りかかった主張するインドネシアのUNIKA(スギジャプラナタ・カトリック大学)の講師鉄道史に詳しいジャージョノ・ロハールジョ (Tjahjono Rahardjo) も日本軍オランダ計画手に入れ、ほとんどそのまま踏襲したという意見だ。また、サワルントからムアロへの路線は、東海岸への路線一部として作られたが、ムアロまでで中断していたという説もある。 ムアロからペカンバルまで、鉄道含め何らかの交通路建設向けた調査研究1870年代からたびたび実施されたのは事実だ。ムアロから人跡未踏ジャングル分け入り東海岸へのルート最初に探索したのは、オンビリンやサワルントの石炭鉱床発見開発したことで知られる地質学者、デ・グリーヴ (Ir.Willem Hendrik de Greeve) だと言われている。1871年調査報告出したが、翌1872年調査中にクアンタン川の急流飲まれ溺死した彼の墓はクアンタン川のほとり今でもひっそりと残っている)。 デ・グリーヴはムアロ=ペカンバル鉄道最初に提案した人物とも言われるが、長年にわたりこの鉄道研究しているジェフリー・ファレル (Jeffery Farrell) によれば、デ・グリーヴの提案に基づくとされる1907年出版され地図を見ると、鉄道延長せいぜいドゥリアン・ガダンまでで、そこからは積み荷は船に積み替え、インドラギリ川を下りマラッカ海峡に出ることになっていた。 植民政府はデ・グリーヴの説く交通網開発、特に石炭輸送ルート開発必要性認め1873年本国鉄道建設経験がある技師、クルイセナエル (JL Cluysenaer) らに鉄路建設可能性についての探査依頼した。クルイセナエルは1875年から3回分け報告書出版した。しかし、彼の提言膨大なコスト予想され現実移されることはなかった。 1890年代にはやはり鉱山技師のイジェルマン (Dr Jan Willem Ijzerman) が300 kmにわたる実地探査行っている。これらの技師がやがて日本軍の手建築される鉄道原型提案をしたといわれているが、それが具体的にどんな提案だったのか、それは未だに解明されていない鉄道可能性具体的に言及されるのは1906年になってからのことだ。ジェフリー・ファレルによれば、その提案をしたのは、タペイから奥へ、日本軍占領時代に第14捕虜収容所がおかれたあたりに採掘権持っていたスイス生まれシンガポール在住実業家、ブランチェリ (Hans Caspar Bluntschli) だ。彼はムアロから自分ヤマ近辺鉄道60 km延長するよう植民政府陳情しその後、その路線ペカンバルまで延長するよう提案した。この実業家日本軍鉄道建設にもっと決定的な役割果たしたとする研究者もいる。しかし、当時植民政府内部文書によれば、ブランチェリは信用のおける人物とは見られていなかったようだその後鉄路が再び注目されるのは1920年代になってからのことだ。植民政府から新たな調査命じられたのはニヴェル (Ir. W.J.M. Nivel) で、実地測量のあと、1927年詳細な報告書発表した (Staatsspoorwegen no.19 tahun 1927)。しかし、難工事には膨大なコスト見込まれ石炭輸送だけで償却することがおぼつかず平時においては特に東海岸への輸送正当化する理由もなく、植民政府躊躇するうち、世界経済大恐慌突入し必要な投資調達することもできず、横断鉄道計画お蔵入りしてしまったと言われている。 日本軍スマトラ侵略以前もしくは侵略以後オランダ鉄道建設計画入手し、それを踏襲した信ず研究者のひとりはヘンク・ホビンガだ。彼は著書の中で、オランダ路線計画日本軍もたらしたのは、戦時中シンガポール植物園管理をしていた田中舘秀三秘書をしていたブランチェリの娘だとする、やや荒唐無稽な説を展開する。ホビンガによると、ブランチェリと田中舘はスマトラ1942年6月16日顔を合わせその時鉄道計画渡されと言うが、そもそも、この日、田中舘はすでにスマトラにはいなかったというのが通説であり、ホビンガの説を裏付ける史料提示望まれる。 しかし、陸軍スマトラ侵攻前から鉄道の建設企図し、調査をしていたのは間違いないようで、戦後第一復員局がまとめた『スマトラ軍政概要』は「第二十五未だスマトラ移駐前既に計画し調査遂げありたり」としている。ここで言う「諸調査」が一体どんなものだったのか。日本軍オランダ計画をどこまで知っていたのか、それを具体的に裏付ける資料証言出ていない。 そもそも、この「オランダ鉄道計画」とはどんなものだったのか。本当に、ムアロ=ペカンバル路線企画されたのか。この辺りもまだ謎に包まれたままだ。 しかし、とどのつまり、ムアロとペカンバルという2点鉄路で結ぶ、石炭を運ぶ鉄路作ろうとする。山や川、谷、勾配など、地形制約考慮すれば、だれがやっても似たようなルートになるのではないかという研究者もいる。このあたりが実は真実なのかもしれない

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