再就役と湾岸戦争
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「ミズーリ (戦艦)」の記事における「再就役と湾岸戦争」の解説
海軍長官ジョン・F・リーマンによる「600隻艦隊構想」達成の努力によりミズーリは1984年に再就役が決定し、1986年5月10日にサンフランシスコで再就役した。姉妹艦同様に最新鋭の武器類が増設された。32発のBGM-109トマホーク・ミサイル、16発のハープーン・ミサイルが発射可能な箱形発射筒、敵の対艦ミサイルを迎撃する4基のファランクスCIWSなどが増設され、最新の電子機器も搭載された。国防長官キャスパー・W・ワインバーガーは再就役式で「これはアメリカの海軍力再生を祝う一日である」と10,000人の聴衆に伝えた。乗組員には「君たちの前任者の足音を聞け。彼らは名誉と義務の重要性を君たちに語る。彼らは自身の伝統を君たちに思い出させる。」と語った。 4ヶ月後に新たな母港のロングビーチから「自由のための強さ Strength for Freedom」のメッセージを携え8ヵ国を訪れる世界巡航に出航した。オーストラリア、ディエゴガルシア島、エジプト、トルコ、イタリア、スペイン、ポルトガルおよびパナマを訪れ、80年前にセオドア・ルーズベルト大統領がグレート・ホワイト・フリートで世界巡航を行わせて以来初めての世界巡航を行った戦艦となった。 1987年には小口径砲の増設が行われ、ペルシャ湾でのクウェート石油タンカー護衛作戦、アーネスト・ウィル作戦に参加した。7月25日にインド洋とアラビア海での6ヶ月間の任務に出港した。熱く緊張した海上で過ごした100日以上の期間は、世界巡航とは対照的なものであった。エコー戦闘グループの中心としてタンカー船団をホルムズ海峡で護衛し、火器管制システムはイランのシルクワーム・ミサイルへの警戒を継続した。 1988年前半にディエゴガルシア島、オーストラリア、ハワイ経由で帰国した。数ヶ月後にリムパック参加のため再びハワイ水域に向かう。同演習にはオーストラリア、カナダ、日本およびアメリカから50,000名以上の兵員と多数の艦艇が参加した。ミズーリの1988年の訪問港には、バンクーバー、ビクトリア、サンディエゴ、シアトルおよびブレマートンが含まれていた。 1989年は艦歴において消耗の年であった。年の初めは定期保守をロングビーチ海軍造船所で行い、独立記念日週末は花火で飾られた。数ヶ月後に太平洋演習(PacEx)'89に向けて出港し姉妹艦のニュージャージーと共に空母エンタープライズ(USS Enterprise, CVN-65)及びニミッツ(USS Nimitz, CVN-68)のために砲撃デモンストレーションを行った。PacExのハイライトは釜山港訪問であった。1990年には再びアメリカ軍に加えてオーストラリア、カナダ、日本および韓国によるリムパックに参加した。 1990年8月2日にイラク軍はクウェート侵攻を行った。同月中旬にジョージ・H・W・ブッシュ大統領はサウジアラビアおよびペルシャ湾に多国籍軍支援のため数十万に及ぶアメリカ軍の第一陣を派遣した。本艦の9月に始まる予定であった4ヶ月間の西太平洋巡航が直前に取り消され、中東情勢に対して動員態勢で置かれた。 出動は11月中旬に命じられ、ロングビーチの6番桟橋から離れてハワイに向かい、真珠湾で感謝祭を祝った後フィリピンに向かった。スービック海軍基地での停泊後タイのパタヤに向かい、その間に砲撃及び化学兵器防護訓練を行った。 1991年1月初めにペルシャ湾に到着し、ここで火災を起こした船を救援した。その後バーレーンに向かった。バーレーンでの短期間の停泊後に北方に向かい作戦活動に従事した。1月17日、イラク領内に向けてトマホーク・ミサイルを発射し、湾岸戦争が開始された。本艦はトマホークを全部で28発をイラク領内に対し発射している。 1月29日、フリゲートカーツ(USS Curts, FFG-38)に護衛されイラク軍と交戦のため北へ移動した。湾岸戦争における最初の戦闘活動は、カフジ北部のイラク軍司令部および燃料庫に対して1,200kgの砲弾を撃ち込むことであった。これは1953年3月以来の主砲発射であった。2月5日には2度目の艦砲射撃を行い、イラク軍砲台を沈黙させた。3日間にわたってイラク軍拠点に砲撃を行い、112発の主砲弾を撃ち込んだ。姉妹艦のウィスコンシン(USS Wisconsin, BB-64)と砲撃任務を共同で行い、2隻の戦艦は16インチ主砲でイラク軍目標を破壊した。 2月23日の夜、地上軍支援のためファイラカ島に主砲弾を発射、クウェート海岸沿いのイラク軍に上陸が間近であると信じ込ませた。フリゲートマッキナニー(USS Mclnerney, FFG-8)に護衛されたウィスコンシンは上陸の兆しにさらなる信憑性を加えるため砲撃に加わった。陽動攻撃は成功し、イラク軍は海岸に沿って防衛を強化したので多国籍軍は海岸の防衛ラインを迂回して進撃を始めた。ファイラカ島砲撃後、ウィスコンシンは着弾確認のためRQ-2 パイオニア無人偵察機を発進させた。パイオニアがファイラカ島上空に達すると、パイオニアに向けて白旗を振る数百名のイラク兵を確認した。ブッシュ大統領が攻撃停止指令を発するまで、ミズーリとウィスコンシンはイラク軍目標に対して450トンもの砲弾を撃ち込んだ。湾岸戦争中にイラク軍は2発のシルクワーム・ミサイルを発射した。一発は海に落下したが、もう一発はイギリス海軍42型駆逐艦グロスターのシーダート・ミサイル2発によって迎撃された。これは、海上での戦闘において対空ミサイルによりミサイルの撃墜に成功した最初の例とされる。なお、この際にシルクワーム・ミサイルに対抗するため発射したチャフを誤認したアメリカ海軍のミサイルフリゲートジャレットのファランクスCIWSが友軍のミズーリを誤射して水兵が負傷する事故が起きた。 イラクは1991年2月28日にソ連提案の停戦協定に同意し、湾岸戦争は終結した。3月中旬にオーストラリアのパースおよびタスマニアのホバートを経由して帰国した。
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