入門 - 入幕まで
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相撲を始める前は柔道、ヨーロッパ王者になったこともあるサンボを経験している。小学生に入るころに柔道とチダオバと呼ばれるジョージアの伝統格闘技を始めた。自身も柔道と相撲の強豪選手であった弟のラシャ・ゴルガゼが「兄は真面目で、いつも練習ばかりしていた。私は真似できなかったなあ」と振り返るのを筆頭に、複数の証言者がレヴァニの練習熱心さを語っている。 2004年の世界ジュニア相撲選手権大会に全く相撲の稽古をしないまま出場したのが初めての相撲経験であり、この時に3位入賞を果たした。世界ジュニア大会ではほかにも重量級準優勝などの実績を残している。柔道も好きであったために角界入りについては迷っていたが、同郷の黒海や家族に相談した末に入門。本人は後年「相撲に入っていなかったら多分、柔道でオリンピックに出ていたでしょうね。ジョージア代表で出ていた選手には一度も負けたことがなかったからね」と話している。レスリング出身者が多い欧州勢の中で、相撲エリートとしての実績や恵まれた体躯、優れた身体能力から、入門時より将来の角界を担う力士として期待された。木村山とは十両昇進後も設備上の理由で同じ個室で生活していた時期があり、木村山が結婚して夫人とともにマンション暮らしをするようになるまで相部屋生活は続いた。 2006年3月場所に初土俵を踏んで以降、全ての場所で5勝以上を挙げるなどハイペースで番付を上げた。 2007年11月場所では東幕下筆頭で勝ち越しを決め、初土俵から所要11場所で十両昇進。ジョージア出身力士では黒海以来2人目の関取となった。 新十両で迎えた2008年1月場所では、いきなり12勝3敗の成績を収め新十両で優勝。翌3月場所でも9勝6敗の成績を残し、十両を2場所で通過。翌5月場所で初土俵から13場所と史上10位タイのスピード記録で新入幕を果たした。 新入幕となった5月場所は7勝8敗と自身初の負け越しを喫したが、以降は順調に出世し、西前頭8枚目で迎えた2009年11月場所には12勝3敗の成績を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。この時は新小結の可能性もあったが、翌場所は西前頭筆頭に据え置かれた。入幕からしばらく勢いが衰えたことに関しては本人が後に「あのとき、もっと真面目にやっていれば、もうちょっと上に行けたかもしれない(笑い)。分からないけどね。若かったから遊びたい気持ちも大きかったんじゃないですか」と振り返っている。しかし幕内上位ではいずれも10敗以上を喫するなど上位の壁は越えられないでいた。 4度目の上位挑戦となった2010年5月場所では、初日こそ把瑠都に敗れたものの翌日以降4大関(日馬富士・琴欧洲・琴光喜・魁皇)を次々になぎ倒し、順調な滑り出しをしたが、その後は失速し千秋楽に8勝7敗とぎりぎり勝ち越した。それでも4大関撃破の星が認められて2回目の敢闘賞を受賞した。この活躍を受けて翌7月場所では新三役(西小結)に昇進したものの、琴欧洲を除く横綱・大関陣に全て敗れるなど上位の壁に阻まれ6勝9敗で負け越した。 西前頭6枚目で迎えた5月技量審査場所は序盤から好調で、千秋楽まで優勝争いトップの白鵬を追って白星を重ねていった。千秋楽に日馬富士に破れて12勝3敗となり優勝は逃したが、自身3度目の敢闘賞を受賞した。7月場所は3度目となる西小結に番付を戻したが、6勝9敗と負け越した。10月18日、同月14日に門限や服装規定を破った栃ノ心ら弟子3人が師匠である春日野親方に腹や背中を素手やゴルフクラブのアイアンで殴られるなどした暴行容疑が浮上し、師匠と栃ノ心らは警視庁本所警察署で事情聴取を受けた。栃ノ心は14日に暴行を受けてから部屋を出て行き16日まで部屋に戻らなかったが、その後春日野親方に土下座して謝罪し自分の非を認め、被害届を提出しない意向である。「自分が悪いことをした。これからはこういうことがないように頑張る」とコメントした。関係者によると、栃ノ心は門限破りと服装違反の常習犯であり、当面は土俵内での申し合いと外出が禁止され、事実上謹慎状態にあり、栃ノ心は「(申し合い)稽古はしたいけど仕方ない」と反省している。ちなみに、同月5日に開かれた研修会で集まった力士に対し、放駒理事長は外出時の服装など日常の行動について注意した直後の出来事だった。師匠は「関取たる者、相撲だけじゃなく、態度や言動も伴っていないといけない。栃ノ心は、もうちょっと『心』をしっかりしてほしい」と語った。27日、師匠は九州場所入りしても反省の色が見えない限り、当面は土俵内の稽古を禁止すると記者に答えた。「反省か何かがないと。嫌なら辞めてもらうしかない」とも語っている。後年、自身が大関に昇進して以降の報道では「キレてもおかしくない一件でしたが、栃ノ心は『親方は自分のことを本気で考えてくれ、本気で怒ってくれた』 と感銘を受け、信頼するように。『稽古は嫌いじゃない』と語っているように、このときから稽古量もよりいっそう多くなっていった」とされている。その後謹慎は解かれたが、土俵上では精彩を欠く相撲内容がしばらく続き、相変わらず上位の壁は打ち破れないでいた。2013年7月場所は5日目の德勝龍戦(栃ノ心が勝利)で右膝前十字靱帯断裂、右膝内側側副靱帯断裂の大怪我を負い、6日目から休場した。その後も回復が遅れて、9月場所初日の前に『右膝前十字靱帯断裂及び右膝内側側副靱帯断裂で更に安静2ヶ月が必要』という診断書を日本相撲協会に提出して休場することになった。11月場所は西十両14枚目の地位まで下がったが、10月10日付で日本相撲協会に「右膝前十字靱帯損傷、右膝内側側副靱帯損傷で、12月末までの安静加療を要す見込み」との診断書を提出した。
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