作品とその影響力
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「ルカ・マレンツィオ」の記事における「作品とその影響力」の解説
マレンツィオはモテットなどの宗教曲や、マドリガーレ・スピリトゥアーレ(聖句にもとづく世俗語歌曲)などもいくつか作曲しているが、作品中で圧倒的多数を占め、今なお死後の名声を守っているのは、厖大な数に登るマドリガーレである。20年間のマレンツィオの創作活動の中で、マドリガーレは作曲の様式と技法、それに響きの上で、変化をみせている。 マレンツィオは少なくとも15点の曲集を出版したが、その大半はマドリガーレにとどまらず、カンツォネッタやヴィッラネッロも含まれている(どちらのジャンルもアカペラの世俗歌曲という点では非常にマドリガーレに似ているが、普通は性格においてやや軽い)。個別に数えるとほぼ500曲が遺されている。様式的に見るとおおむねマレンツィオの作品は、生涯を通じて徐々に深刻な響きを帯びるようになってゆくが、しかしながらあらゆる年代においてマレンツィオは、個々の作品の中で、また時には個々のフレーズの中で、最も衝撃的な気分の変化をとらえることができた。歌われる詩の文言を忠実に追っていくので、音楽が混乱して聞こえることは滅多にない。最後の10年間は、より深刻な、厳粛ですらあるような楽曲を創作しただけでなく、ジェズアルド以外に太刀打ちできる者がいないような大胆さで、半音階技法の実験をも試みている。マドリガーレ《おお、ため息をつくあなたよ O voi che sospirate 》においてマレンツィオは、たった一つのフレーズの中で、エンハーモニックの読み替えを用いて(例えば、嬰ハ長調の主和音を変ニ長調主和音の異名同音とみなして)五度圏の転調を完全に一巡し、そのため平均律の近似値のような感覚がなければ歌うのが困難になっている。 マレンツィオの様式でより特徴的な点で、なおかつジャンルとしてのマドリガーレで洗練されている点は、音画技法の用法である。すなわち、特定の語句を音楽に反映させ、歌われている内容について、譜面の上で音型や和声を用いて暗示するという手法である。明快な例を挙げると、「海に沈む」という語句には一連の下行する音符をあてたり、「不安」という言葉を、解決を伴わない不協和音で伴奏したりすることをいう。 マレンツィオはイタリアの作曲界だけでなく、その他のヨーロッパ諸国にも甚大な影響力を残した。一例を挙げると、1588年にはイングランドでニコラス・ヤング(Nicholas Yonge)がイギリス初のイタリア・マドリガーレのアンソロジー『アルプスの向こう側の音楽』(Musica transalpina)を出版しているが、この中でマレンツィオは、アルフォンソ・フェッラボスコ1世に次いで収録曲数が多い。2冊目のイタリア・マドリガーレ集がイングランドで出された時は、収録曲数でマレンツィオにかなうものは誰一人いなかった。 典拠管理WorldCat VIAF: 2656905 LCCN: n80138261 ISNI: 0000 0001 0863 4444 GND: 118781847 SELIBR: 268412 SUDOC: 069743800 BnF: cb138970773 (data) MusicBrainz: b9827d50-4ba5-45e5-872b-bef97e5d6d56
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作品とその影響力
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「チプリアーノ・デ・ローレ」の記事における「作品とその影響力」の解説
ローレは、120曲以上のイタリア語のマドリガーレによってとりわけ名高いが、宗教曲の多作家でもあり、いくつかのミサ曲やモテットを遺した。原点においてジョスカンが手本であり、この老大家の作曲様式から自分自身の作曲様式を引き出している。ローレの最初の3つのミサ曲は、先輩であるジョスカンやその遺産に対する挑戦の結果であった。5つのミサ曲のほかに、幾つかのモテットや多数の詩篇唱、ヨハネ受難曲、世俗モテットが遺された.。 しかしながらローレが不朽の名声を遺したのは、マドリガーレの作曲家としてであり、事実ローレは、16世紀半ばにおける最も影響力のあるマドリガーレ作曲家の一人であった。ローレのマドリガーレは、もっぱら1542年から1565年にかけて出版された。初期のマドリガーレは、ヴィラールトの作曲様式に負っており、明晰な発音、重厚で絶え間ない対位法、徹底した模倣、カデンツの強調を特色とする。マドリガーレの殆どは4声か5声のために作曲され、ときに6声や8声の作例も見られる。楽曲の調子は厳粛さを帯びがちであり、とりわけ初期のマドリガーレの軽快さとは好対照を生している。ローレは、ペトラルカの詩歌やフェラーラで上演された悲劇の台詞に専念するために、軽佻浮薄な性格の詩句に曲付けしようとしなかった。またテクストの気分の変化を描出することに全力を注いだ。しかもローレは、詩の構成や詩節、詩のリズムをしばしば無視しており、詩の構成と楽曲構成の一致を必要不可欠なものと看做していなかったことを窺わせている。その上ローレは、ありとあらゆる特徴的な作曲様式を使いこなして、詩の意味を、延いては統一体としての詩を表出しようとした。 さらにローレは、興味深いことに、半音階技法を試みている。ニコラ・ヴィチェンティーノと同世代であったので、その半音階理論を実践したのであった。しかもローレは、ヴィチェンティーノの洗練された対位法の手技を称賛してもいる。またマドリガーレにおいてローレは、カノンの技法や通模倣を駆使した。しかも、16世紀初頭に聖句の曲付けに活用されて発展した、ポリフォニーの蓄積を活かしている。ローレは多種多様な作曲技法を用いており、厳格な模倣から単純な対位法まで、穏当な全音階から遠隔転調まで、シラブルどおりの朗唱からメリスマ的な節回しまでと変化に富む。ローレは、16世紀後半の偉大なマドリガーレ作曲家の多くの模範となり、クラウディオ・モンテヴェルディからも一目おかれた。アルフレート・アインシュタイン著『イタリアのマドリガーレ』(1949年)によると、「ローレの真の精神上の後継者は、モンテヴェルディであった。」「ローレは、1550年以降のイタリアのマドリガーレのすべての発展の鍵を握っている。」教師としてのローレは、直接にジャケス・デ・ヴェルトやルッツァスキ・ルッツァスコを指導したと伝えられる。両者はいずれも後期イタリア・ルネサンス音楽において、最も急進的な音楽家の指導的存在となった(モンテヴェルディはヴェルトからも影響を受けている)。 ローレは16世紀半ばに、当時比較的まれであったラテン語による世俗モテットも作曲した。これらの世俗モテットは、「マドリガーレ・スピリテュアーレ」(宗教的マドリガーレ)と鏡像関係にあり、様式的に見て、マドリガーレに類似する。
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