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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 22:10 UTC 版)
1919年11月13日には株式会社へ改組した。 1942年5月、弥吉は陸軍とのいざこざが原因となって安宅商会社長を退任し、後任には次男の安宅重雄を指名した。長男の安宅英一ではなく、10歳年下である次男の重雄を社長としたのは、英一が自身もピアノを演奏するなど音楽に興味があったこともあって数多くの芸術家のパトロンとなり、月に当時の金額で1万円以上も(当時の大学卒の平均的な初任給は40円だった)浪費していたこと、さらには学生時代(神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒)から靴ひもすら使用人に結ばせるような「殿様気質」を持っており、堅実を信条とする弥吉が「英一には守成の才はないのではないか」という危惧を抱いたためと言われている。また、英一自身も、「社長なんて面倒なことはかなわん」と重雄に社長業を譲ったとも言われている。 しかし、重雄は京都帝国大学文学部哲学科出身で、英一のような浪費癖はなく堅実ではあったものの、哲学専攻という学究肌の人物で、商売に精力を傾けるタイプではなかった。それも手伝って、社内は重雄をもり立てる方向ではまとまらず、重雄派と英一派の2つの派閥が生まれることになった。英一派の中心となったのが猪崎久太郎取締役であった。1927年から英一がロンドンに留学した際に猪崎が同地に駐在していた縁もあり、さらには英一を担ぐことによって一気に出世の階段を駆け上ることを狙う猪崎と、実務を担うのは面倒だが安宅産業の実権は握りたい英一の利害が一致したこともあり、猪崎の発言力は増す一方であった。 1943年1月1日には社名を安宅産業株式会社に変更。 第二次世界大戦の終結で、海外にも有していた61の支店・出張所と6つの直営生産会社は閉鎖となった。また、資本金の3倍に及ぶ戦時補償特別税も課せられたため、創業以来40年にわたって築き上げてきた資産のすべてを失うことになった。これによって、1946年には他の商社と同様に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定され、企業再建整備法に基づく再建案の審査を受けることになった。だが、三菱本社や三井本社のように過度経済力集中排除法によって解体されることはなかった。 そうした折に、戦争責任問題もあり、英一を担ごうとする猪崎の工作もあって、弥吉の前で重雄社長と英一の兄弟が話し合いを持った。その結果、1945年10月に重雄は他の多くの取締役と共に退任し、後任として神田正吉が社長に就任する事になった。英一は猪崎を社長に据えるよう重雄に迫ったが、重雄は「神田を社長にしないのであれば僕は退任しない」としてこれを拒否。猪崎は副社長となり、ロンドン仕込みの英語を駆使して社長の神田を尻目にGHQとの交渉などで活躍して社内の実権を握っていった。この時の猪崎の部下に、後に安宅崩壊のきっかけを作る高木重雄がいた。 戦後処理の中で公職追放をおそれた安宅家は、合計で85%以上を保有していた株式をほとんどすべて手放した。しかし、GHQの占領体制が終焉を迎え、他の財閥指定を受けた一族が株を取り戻して支配力を回復したのに対して、安宅家は株の取り戻しに動かず、保有株式は全発行株数の2%にも満たない状況が続いていた。そのような状況の中で1955年に英一は会長に就任したが、彼は不思議な威圧感を持つ人物であり、社内ではワンマンとして絶対的権力をふるっていた猪崎も英一の前に出るとその言いなりになる状況であった。こうして、実際の社業の切り盛りは猪崎社長が行うが、人事権は創業家というだけで大株主でもない英一会長が保持するという二重権力体制が確立されていく。英一は「経営のことはわからんが、人間の判断はわしがする」と言い放ち、社員の採用試験でも最終的な判断を下したことはもちろん、重要人事も英一会長が反対すると流れてしまう状況が続いた。 この状態は英一が1965年8月に会長を退任後、「相談役社賓」という不思議な肩書きに退いた後も続き、会社の表向きの指揮命令系統とは別に、200人とも300人ともいるといわれた安宅家に忠誠を誓う「安宅ファミリー」と呼ばれる安宅家にゆかりのある社員の一団が隠然たる力を持つことになった。英一は長男の安宅昭弥を取締役として安宅産業に入社させ、ゆくゆくは社長にしたいと考えていた。その番頭として安宅ファミリーの頂点に立つ柴田芳雄を専務に据え、管理財務本部長と人事総務本部長を兼任させ社内の実権を一手に集めるなど、安宅ファミリーの影響力は公然たるものがあった。
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