井堀工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:45 UTC 版)
井堀工区のトンネルは全長3,190.76メートルで、前田建設工業に対して発注された。ただし、トンネル外の高架橋、盛土、切取の区間も工区に含まれており、この区間を合わせた工区の長さは3,270メートルである。1971年(昭和46年)4月に着工し、9月18日に起工式が挙行された。 井堀工区は市街地の地下を掘削する必要があり、地盤沈下を極力抑制でき、地上に影響を与える恐れのある爆薬を使用しない工法が求められた。また工事用の設備を置いた基地を地上に10,000平方メートル以上確保する必要があり、その配置を考慮しなければならなかった。また工期との兼ね合いも重要であった。こうした結果、起点側坑口は開削工法で掘削し、その先はビッグジョン式シールド工法を採用した。そして残りの区間について底設導坑先進上部半断面工法を採用した。結果的に地上設備を設置する基地は、福岡県の公園建設予定地を借用した。 本体の工事に先立ち、地質や地下水の状況、トンネル工事に伴う沈下などを調査する目的で、新大阪起点500キロメートル075メートル地点(以下、500K075Mのように略して表記)に調査坑を掘削した。調査坑は、本線から10メートル離れた位置に直径4メートルのものを深さ23メートルまで掘削した。ここから本坑へ向かって手掘りで掘削して、各種の調査を行った。さらにここから本坑にあたる位置を前後にパイロット坑を掘削して事前の地質調査に万全を期した。起点側は500K442Mまで、終点側は501K443Mまで、ほぼ1キロメートルにわたり断面積7平方メートルのパイロット坑をロードヘッダーを用いて約12か月をかけて掘削した。終点側は、このパイロット坑終点からさらに本坑掘削現場へ向けて水平ボーリングによる調査も行った。 501K945M地点に全長276メートルの井堀斜坑を掘削し、本坑への資材搬入とずりの搬出に主に用いた。一方、501K886M地点に14メートル四方の断面で深さ38メートルの井堀立坑を建設し、こちらはビッグジョン式シールドの搬入組み立てに用いて、その発進後は生コンクリートの投入に使用し、トンネル完成後は饋電区分所の設置に利用した。 ビッグジョン式シールドは、シールドマシンの一種で前面がオープンになっており、ここに油圧ショベルが据え付けられていて切羽の掘削を行う。油圧操作によるバックホーショベルそのものをビッグジョンと呼んでいる。アメリカのメーカーであるメムコの社長ジョン・テイバーの名前にちなむ呼称である。 1972年(昭和47年)7月8日からビッグジョンの組み立てを開始し、86日かけて完成し、10月21日からビッグジョンでの掘削を井堀立坑から起点側へ向けて開始した。当初は予想外に地質が硬く進捗に難渋したが、501K720M程度から風化の進んだ地質になり、掘削が容易になって進捗が上がった。しかし501K600M付近で崩落事故が起きた。切羽の上部の岩が崩落してシールド先端から切羽が離れてしまい、シールドを前進させて接近しようとしたものの、それがさらなる崩落を誘発して、翌朝になり被り24メートル上の地表面で陥没を引き起こした。陥没部にコンクリートを充填し、地盤注入を行って突破した。さらに501K400M付近でも風化した地盤が崩落しそうになり、上部にガソリンスタンドのタンクがあったことから、頂設坑を先に掘削してからその後シールドを通過させる工法で、約2か月をかけてこの部分を突破した。 こうした遅延の結果、ビッグジョン式シールド工法の予定工期達成は困難となり、施工区間を約400メートル短縮して起点側から迎え掘りを行うことにした。500K192Mよりサイロット工法(側壁導坑先進上半工法)で終点側へ向けて掘削を行った。 1974年(昭和49年)4月11日に500K540M地点でビッグジョン解体用立坑にビッグジョンが到達した。さらにビッグジョンは解体立坑直下を通り過ぎて56メートル起点側まで掘進し、起点側から側壁導坑先進上半工法で掘削してきたトンネルと4月25日に貫通して、4月29日から解体が開始された。解体立坑からシールドまでの路盤コンクリートを施工して運搬路を形成し、解体したビッグジョンを台車に載せて解体立坑へ運搬して、クレーンで坑外へ搬出して6月30日に解体完了した。その後解体立坑については閉塞した。 大変土被りの浅い中を掘削せざるを得なかったため、地上部の防護に注意を払う必要があった。そのため一部の家屋は買収して空き家にした状態で施工し、残りの建物についてもシールド通過の時期には一時的に旅館などに移転してもらって施工するなどの対策を行った。また大きな建物については薬液注入などによる防護対策をおこなった。 また近隣の井戸についても渇水が予想されたため、事前に緊急給水用のタンクを準備しており、渇水が発生するとすぐにタンクによる給水と臨時配管による水道供給で対策を行う体制とした。工事期間中、渇水戸数440戸、家屋変状180戸の被害と地表陥没事故を引き起こしたものの、地元の住民が結成した新幹線対策協議会を通じて国鉄・建設会社への要求事項を受けるとともに、場合によっては協議会が地域住民の説得を行って国鉄との協定事項を責任をもって実行するなどの対応を行ったことから、工法を放棄することなく完成にこぎつけることができた。 1973年(昭和48年)8月9日に、底設導坑先進上部半断面工法の区間が鞘ケ谷工区側へ貫通した。1975年(昭和50年)5月20日に竣工した。これは新幹線の開通より後まで工事をしていたことを示す。井堀工区の総工費は63億3801万9000円であった。
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