主張への指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 02:54 UTC 版)
1993年、ソウル大学教授の安秉直ら「挺身隊研究会」が元慰安婦と名乗り出た女性らに聞き取り調査を行った。安は元慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいた事を記し、調査の対象となった40人のうち、19人についてはそうした事はなく証言の信頼性が高いことを以下のように書いている。 「調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。」後日(2006年)に安は、「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、日本のケースでの「自発性」を強調し、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきであり、共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している。 西岡力は『この調査で「強制」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人は、日本政府を訴えた裁判の訴状で「キーセン」などとして「身売り」された』と書いている。 秦郁彦は雑誌記事で李容洙の1992年挺身隊対策協議会への証言および2007年アメリカ下院公聴会での証言から、慰安婦になった経緯は民間業者の甘言、朝鮮人による騙しによるものであり官憲による強制連行ではないとし、家出が正しいとしている。また、週刊新潮の取材に対して、「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た”と語り、米国の公聴会でも同じことを喋っているのですが、これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです」「連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間(1944年-1947年)も強いられた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。」と、その証言に疑問を示している。 慰安婦についての研究で一橋大学大学院社会学研究科から博士号を得ている尹明淑は、元朝鮮人慰安婦43人分の証言を調査している。この研究では、このケースは「詐欺誘因」となっており、自分の意志に反した誘拐になっている。 2004年の証言では「1944年、16歳の時に連行され、3年間強制された(日本の敗戦後まで)」だったが、2007年の証言では「1944年15歳の時に連行され1945年に解放とされた」と修正申告。2004年の証言と2007年の証言が違うのではという指摘に、李自身は「私はどちらもそういう風に喋っていない、私が喋ったことが毎回違うと言う人がいるそうだが、集会で話すための持ち時間も違うし、なんにせよ私の体験全部は話せない。その時の選択で喋り方が変わった事をどうして嘘をついたというのか?」と主張した。 2015年、米国での講演では「満16歳の時に理由も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた。」と証言した。 2020年、水曜集会を批判した李容洙に対し、集会を主導してきた尹美香は反論の中で「(30年前の最初の会話では)私ではなく私の友人が…」という話だったという点に触れ、李が元慰安婦ではなかったことを示唆した。さらに「(李の)記憶はわい曲されている」「心身が衰弱した状態」と主張した。
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