ライバルとの競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:25 UTC 版)
72系の投入を巡っては、国鉄本社と大阪鉄道管理局(大阪局・大鉄局)とのあいだでの認識の違いがあった。国鉄本社とすれば、京阪神緩行線と首都圏の京浜東北線が同じような線区と判断したとされる[要出典]が、実際のところは大きな違いがあった[独自研究?]。まず、京浜東北線は田端駅 - 大井町駅間で東京都心を縦貫するが、京阪神緩行線で似ている区間を挙げるとすると、神戸市内を縦断する六甲道駅 - 鷹取駅間くらいである[独自研究?]。また、大宮駅 - 桜木町駅間では当時から都市化が進んでいたが、京阪神緩行線の場合は、京都駅を出て次の西大路駅で当時の京都市電西大路線を過ぎると、高槻駅の手前まで駅周辺を除くと点在する工場と田園地帯が続き、その後も淀川を渡るまで工場と田園地帯と住宅地がまだらに続いていた(当時新大阪駅はまだ開業していなかった)。このことは、京阪間より都市化が進んでいた阪神間においても同様で、沿線には田畑が多く残っていたほか、須磨以西の宅地開発も進んでいたが、それらと比較してもまだ郊外であった。 このような路線の違いがあったことから、京浜東北線では戦前からロングシート車主体の運行であり、京阪神緩行線は京阪神3都市と高槻・茨木・吹田・尼崎・西宮・芦屋・明石といった中規模の都市を結んでいたため、51・70系といった3扉セミクロスシート車が投入された。 このように性格の違う両線区であったが、それ以上に違いがあった。ライバルの存在である。 京浜東北線には、品川駅 - 横浜駅間で京急本線と並行する。しかし京急の優等列車の相手は横須賀線・東海道線が務めることになるため、京浜東北線としては必然的に普通と対抗する方法となり、当時は旧型車主体で駅間距離が短く、速度も低い京急の普通はライバルにはなりにくかった[独自研究?]。 しかし、京阪神緩行線には、阪急京都線・神戸線、阪神本線、山陽電鉄本線とほぼ全区間に渡って並行路線が存在し、しかも、京阪神緩行線の駅間距離が長いことから、普通だけでなく急行クラスの優等列車とも勝負を余儀なくされた。また、急行だけでなく普通の速度も比較的高いのに加えて[独自研究?]、車両の面でも手強いライバル揃いであった。 阪急ではP-6(100系)や920系などの戦前生まれの車両のほか、710、810系などの戦後初期の車両から1010・1300系といった初期の高性能車に初代ローレル賞受賞車の神戸線2000・京都線2300系が主力として運用されていた。 急速に車両の大型化を進める阪神では、3011形特急車を筆頭に3301・3501形、7801形といった赤胴車が優等列車に充当され、駅間距離の短い普通にはジェットカー(5001形、 5101・5201形ほか)が続々と投入され、たちまち旧型車を置き換えた。 山陽も820・850系といった元特急車のほか、2扉の特急車と3扉の通勤車が投入された2000系、一部木造車が残っていた100系を更新した250系、270系、流線型の200系小型車を更新した300系、広軌63系として有名な700系を更新した2700系と700系全金属改造車、そして現在も運用される3000系といったように、各社とも戦前の名車から戦後の新車、更新車が勢揃いしていた。 京阪神緩行線もセミクロスシートの51・70系であれば互角の勝負を挑めるが、中古の63系上がりの72系では、整備の行き届いた広軌63系の山電700系にも及ばず、72系920番台全金属車や全金属改造車でやっと阪神7801形と肩を並べる程度で、ライバル各線区の車両とは接客レベルに雲泥の差が生じてしまった。線区の特性を無視した72系の大量投入によって、京阪神緩行線は魅力だけでなく競争力も急速に失っていった。さらに拍車をかけるように1962年には阪急神戸線・阪神本線と山電を結ぶ神戸高速鉄道が着工され、建設が進められていた。 しかし大鉄局としても手をこまねいていた訳ではなく、新潟地区への70系投入についても当初はクモハ54の投入を検討したり、1964 - 1965年にかけて、横須賀線の113系化の進展に伴って捻出された70系を20両前後明石に転入させるなど、何とかして「3扉クロスシートの京阪神緩行線」を維持しようとしたが、ラッシュ時には300%近い乗車率に達していたことから超満員の乗客でドアガラスが破損するなど、もはや3扉クロスシート車主体でラッシュ輸送に対応することが困難な情勢になっていた。こうしたことから翌年の中央西線の瑞浪駅までの電化で70系をほとんどすべてを大垣に転出させた一方で、代わりに京浜東北線から大量の中古72系を受け入れて、昼間時の着席サービスを犠牲にすることでラッシュ時の輸送力増強を図った。それでも51系は100両近く残留し、1968年10月1日の「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正前後でも51系が60両、モハ70が3両残存していたことから、基本編成、付属編成のどちらかにこれらの形式を1 - 2両組み込むことでクロスシートサービスの維持を図っていた。なお、快速においても従来の80系では京都以東・神戸以西の区間を含めラッシュ時に対応が困難になってきたことや、競合する各私鉄が1960年代前半に特急用の新車を投入したことから、1964年から113系近郊形電車が快速に投入されている。
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