ライバルとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:13 UTC 版)
「サウスウエスト航空」の記事における「ライバルとの戦い」の解説
しかし、ライバル航空会社との戦いが終わったわけではなかった。 サウスウエスト航空がホビー空港に移ると、ブラニフ航空とコンチネンタル航空は一部の路線をホビー空港発着とするとともに、サウスウエスト航空と同じ額の低運賃を派手に宣伝して対抗した。これに対して、サウスウエスト航空は「サウスウエスト航空がホビー空港でサービスを始めなければ、相手の2社はホビー空港には戻ってこなかったはずだ」と広告を出して訴えた。サウスウエスト航空は低運賃なだけではなく、時刻どおりに運航し、便数が多く待たされることもなかった ため、利用者はサウスウエスト航空を選択し、ブラニフ航空の計画は裏目に出てしまった。その後、1970年代半ばにブラニフ航空はホビー空港から撤退している。 ダラス・フォートワース国際空港(以下「新空港」と表記)が開港する少し前の1972年、サウスウエスト航空は新空港当局に対して、新空港に移転せずにラブフィールド空港にとどまると通告した。便利な市街地の近くの空港に発着することでビジネス客の要望にこたえていたので、市街地から離れた新空港に移転することは理屈に合わないと考えたためである。しかし、これは新空港当局やライバル航空会社から反発を受け、合同訴訟を起こされる事態になった。テキサス州地方裁判所・高等裁判所・最高裁判所・合衆国最高裁判所へと審理が進められたが、最終的にはサウスウエスト航空の主張が認められることになった。 1973年になると、ようやく利益を計上するようになってきた サウスウエスト航空は、1973年1月22日よりダラスとサンアントニオを結ぶ路線の運賃を、当時の通常運賃の半額である13ドルに設定することで、同路線の乗客増を狙った。これに対し、ブラニフ航空は同年2月1日より、この区間の運賃を同額の13ドルにして対抗してきた。しかし、この路線はサウスウエスト航空にとっては収益性の高い路線であり、絶対に負けられない路線でもあった。サウスウエスト航空は「しみったれた13ドルごときに打ち落とされるサウスウエスト航空ではない」と広告を出した 上、同年2月2日より、通常運賃の26ドルを支払った利用者に対して、「シーバスリーガル」(スコッチ・ウイスキー)・「クラウンローヤル」(カナディアン・ウイスキー)・「スミノフ」(ウォッカ)のいずれか1本のフルボトルを無料で提供するという奇策を打ち出した。この施策は、航空運賃を経費として会社に請求できるビジネス客からは大好評となり、ビジネス客はこぞって26ドルを支払った上でボトルを自宅に持ち帰った。この施策が行われた2か月間で、サウスウエスト航空はテキサス州で最も多くの「シーバスリーガル」・「クラウンローヤル」・「スミノフ」をさばいたといわれている。 こうしたサウスウエスト航空の戦いを、地元のマスコミは「ダビデとゴリアテ」の戦いになぞらえて取り上げ、テキサス州の住民にサウスウエスト航空が印象付けられることになった。
※この「ライバルとの戦い」の解説は、「サウスウエスト航空」の解説の一部です。
「ライバルとの戦い」を含む「サウスウエスト航空」の記事については、「サウスウエスト航空」の概要を参照ください。
- ライバルとの戦いのページへのリンク