ライバルのプレッシャーと国民との約束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:09 UTC 版)
「円谷幸吉」の記事における「ライバルのプレッシャーと国民との約束」の解説
手術後、再起をはかる円谷は別府駐屯地の療養所で療養も兼ね、トレーニングに励んだが、かつての銅メダルに輝いた走りを取り戻すことはできなかった。さらに、福岡国際マラソンで2時間10分を切り当時の世界新記録を樹立したクレイトンや佐々木精一郎、澤木啓祐など新たな強豪の出現も円谷にプレッシャーを与えた。円谷は手術前から長兄の敏雄や前教官の畠野洋夫には、もう一流の走りは無理であるとの手紙を送ったり、手術後には体育学校の関係者に弱音を吐いている。体育学校に在籍していた三宅義信をはじめ、周囲の関係者は円谷に選手を諦め、体育学校の教官(コーチ)になることを勧めていたという。1967年末には下田で合宿を行うが、まともに走ることはできず同僚のサポートに務める。この頃、「今後は後任の教育をやっていこう」との旨を前教官の畠野への手紙に記している。 メキシコオリンピックへのプレッシャーに苛まれる円谷には、全国のファンからメキシコへの期待や激励に満ちた手紙が送られてきていたという。メキシコオリンピック代表選出への最終予選が迫る中、走れなくなった現実、アベベに勝つという国民との約束や期待の狭間で円谷は苦しむことになる。
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