ライバルの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
15世紀には周辺の国家の王権が中央集権化を進めた時期でもあった。そのため、ハンザ同盟と各地で抗争が繰り広げられた。 14世紀末、ネーデルランドはブルゴーニュ公の支配下に入った。15世紀にはアントウェルペンが台頭し、ハンザが商館を置いていたブリュージュの地位が低下した。ブルゴーニュ公はハンザに対して圧力をかけ、リューベックは強硬策に出ようとする。オランダ商人はエーレスンド海峡を通って貿易を行い、ヴェンド系都市を通過せずにバルト海に進出したため、リューベックは制裁を試みた。しかし、オランダ商人によって利益を得ていたドイツ騎士団やリーフラント(リヴォニア)の中小都市が反対したため、ハンザ同盟は一致した行動がとれなかった。さらに、ハンザに反感を持っていたスカンディナヴィア半島の諸王国がオランダを支援したため、ハンザ同盟はオランダ商人の活動を認めさせられた。 14世紀には、イングランド商人が成長し、プロイセンのハンザ都市で貿易を開始した。するとハンザの諸都市はイングランド商人の取引を規制した。これに対してイングランド商人はイングランドでハンザ商人が得ているのと同じ権利をハンザ都市に要求した(いわゆる相互主義)。この考えはイングランド議会にも受け入れられたため、1388年にハンザはイングランドに妥協し、相互主義を受け入れてイングランド商人に特権を与えた。この相互主義の適用範囲は拡大し、1428年にはドイツ騎士団領でイングランド商人の団結結成が認められた(ハンザの商館に対応する)。 15世紀、イングランドは私掠船によってハンザの商戦を苦しめた。ハンザ商人でない者が、ハンザ商人と共に商売をしてハンザ特権を享受しているというのがイングランド側の主張であった(ハンザ側では、そのようなケースは事業拡大のために黙認されていた)。一方でイングランドの王室や毛織物業者にとってハンザ商人は大きな利益をもたらす存在であったため、完全な排除は行われなかった。百年戦争が勃発するとフランスはハンザ同盟に接近し、ハンザは私掠船によって戦況を優位に進めていたイングランドの船を圧倒した。1474年、ブルゴーニュ公の仲介によってハンザとイングランドは和解し、ユトレヒト条約が締結された。これによってハンザ同盟のイングランドにおける地位は高まり、イングランド商人はバルト海から撤退した。 15世紀初頭の東欧ではヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合が台頭し、バルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団と対立していた。騎士団領のハンザ都市は商売上のライバルであるドイツ騎士団に対抗して、ポーランドを応援していた。1410年、ドイツ騎士団はタンネンベルクの戦いでポーランドに敗れ、1466年の第二次トルンの和約で大きく西方に後退した。プロイセン地方の新たな支配者となったポーランド王国の下、中小の都市は没落し、自由都市ダンツィヒやリガなどの都市が興隆した。この結果、東方のハンザ都市は自己の利益のみを追求ようになり、同盟の一体感は失われていった。 さらに、カルマル同盟を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れて、バルト海の覇権を失った。 北ドイツでは、神聖ローマ皇帝の勢力が小さくなる代わりに、領邦君主が勢力を伸ばした。領邦君主が自領内都市への圧迫をかけた結果、多くの都市がハンザ脱退していった。
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