モーグルの残骸の、もととなったものの認定
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「ロズウェル・リポート」の記事における「モーグルの残骸の、もととなったものの認定」の解説
報告は、残骸の候補に挙げられた複数のものを除外し、証拠が示す残骸の正体と信じられているものを特定した。 報告によると、当時の新聞の記事と連邦捜査局(FBI)のテレックスは気球タイプの物体を示していた。また報告によると、The Roswell Eventsなどに見られる宣誓供述書の内容では、その記述も気球タイプの残骸としばしば一致した(目撃者たちが言った内容に関し、研究家たちが述べていることと反して)。「人物の多くが……彼らがこの事件について何か地球外的なものがあったと考えていると意見を表明したけれども、彼らの多数が実際は気球からの残骸にひどく似ている物体を叙述していた」(p.22)。引用された目撃者の陳述は、ジェシー・マーセル・ジュニア(Jesse Marcel Jr)、ロレッタ・プロクター(Loretta Proctor、マック・ブレイゼルの隣人)、ベシー・シュライバー(Bessie Schreiber、旧姓ブレイゼル)、サリー・ストリックランド・タドリーニ(Sally Strickland Tadolini、もう一人の隣人)およびロバート・ポーター(Robert Porter)からのものであった。調査官たちはさらに、気球に一致する物体を叙述したシェリダン・キャヴィットと、フォートワースで彼が見たものを叙述したアーヴィング・ニュートン(Irving Newton)にインタビューした。 GAOの要求の範囲が「気球観測用気球」を含んでいたことから、そういった計画への参照も求められ、モーグル計画についての文書がすぐに浮上した。それらは、問題の時間帯である1947年6月と7月に、アラモゴード陸軍飛行場(今のホロマン空軍基地)とホワイトサンズから放球された、気球を用いた秘密の計画に関するものだったために、調査の対象となった。モーグル計画は高層大気における低周波音響を監視することで、ソビエトの核実験を検知できるかどうかを評価するよう構想された調査計画だった。この計画はニューヨーク大学/ワシントン研究所の共同で行われた。後に明らかとなった、この調査の鍵となる人物は、まだ存命である: 調査監督、アゼルスタン・F・スピルハウス博士(Dr. Athelstan F. Spilhaus)計画技師、チャールズ・B・ムーア教授(Professor Charles B. Moore)そして軍の計画将校、アルバート・C・トラコウスキ大佐(Colonel Albert C. Trakowski)。彼らは全てこの報告のためにインタビューされた。 モーグル計画は高度に秘匿された計画であり、多くの当事者たちは調査の真の性質を知らなかった。ムーア教授自身はこの報告が編纂される少し前まで、この計画の名前を知らなかった。 報告から: 「現場の計画技師、ムーア教授は、彼のチームの取り組みに関する詳細な情報を提供した。彼らが最初にニューメキシコ州に到着した時に、彼らは全ての必要な装置を持っておらず、レーダー標的が気球を追跡するのに使われたことを彼は思い出した。初期の開発途上のレーダー標的の一部は、おもちゃや珍品の会社によって製造された。これらの標的は、立体凧の構成にいくぶん似ている多面反射板を形づくるため、アルミニウム「フォイル」またはフォイルに裏張りされた紙、耐久性を強化するための「エルマータイプの」のり(木工用のり)が塗られたバルサ材の梁、アセテートおよび/またはクロス補強テープ、一本のまたは撚り合わされたナイロン糸、真鍮のひも通し孔、そしてスイベルから作られていた。これらの標的の一部は、シンボルが印刷された、紫がかったテープで組み立てられていた。 ニューヨーク大学のグループの実験記録の要約によると、フライトAからフライト7(1946年11月20日-1947年6月2日)はネオプレン製の気象観測気球でなされた(後の飛行はポリエチレン気球でなされた)。ムーア教授はネオプレン気球は日光中での劣化の影響を受けやすく、乳白色から暗灰色になったと述べた。 彼は砂漠の中に着地した反射板と、搭載物を伴う気球の残骸を見つけたと記載した: 破裂してずたずたになったネオプレンは「たった数日の太陽への露出のため、ほとんど暗灰色か黒色の薄片、または灰に見えた。ネオプレンの中の可塑剤と抗酸化剤が独特の酸っぱい臭いを放出しており、気球の物質とレーダー標的の物質が地上に戻った後に地表風によって撒き散らされたのだろう」。1947年の、レイミー将軍の記者会見を撮った地元新聞の写真と、牧場で回収された残骸を取り扱ったと推測される、個人による一般書籍の中の叙述の調査に基づき、ムーア教授は物体は複数のレーダー反射板を伴う複数のネオプレン気球のずたずたになった残骸とするのが最も妥当だという意見を述べた。ムーアの科学的意見では、キャヴィットによって叙述された物体と「黒い箱」は、フライト4という「業務飛行型」に搭載されたものであった可能性が最も高い。フライト4は、厚紙で作られていた典型的な気象ラジオゾンデとは違う、円柱形のソノブイと箱に収められた気象機器の一部を搭載していた。さらに、当時の専門雑誌のコピーが一冊、A・P・クレイリー(A. P. Crary)によって保存されており、彼の未亡人によって空軍へと提供された。これはフライト4が1947年6月4日に、ニューヨーク大学のグループによって放球されたが、回収されなかったことを示していた。この極秘計画の、非機密の構成要素から作られた、気球隊列(フライト4)は、ニューメキシコ州ロズウェルの北西数マイルに止まり、地表風の中でずたずたにされていき、最後は10日後に牧場主ブレイゼルによって見つけられた、というのが可能性として非常にありえることである(pp.26-27)。 報告によれば、数人の他の研究家は独自にモーグルがフォスター牧場の残骸の源であったとの結論に達していた。そのうちの一人はカール・フロック(Karl Pflock)であり、この意見を空軍が発表する少し前に出版していた。ところが、フロックは、異星人の死体が回収された数マイル離れたところで、同時にもう一つの事件が起こったとも結論している。報告はこの「信用できない同時発生」を裏付ける情報は何も発見していないと記した(p.28)。 結論において、報告はこう述べた: 「空軍の調査は「ロズウェル事件」がUFOの出来事であったとするいかなる情報も突き止められず、発展もさせられなかった。全ての利用可能な公式の資料は、それらの資料自体はロズウェルに直接取り組んだものではないけれども、ブレイゼル牧場から回収された残骸の起源はモーグル計画の気球隊列のひとつに由来したことを示している」(p.30)。 この報告では異星人についての言及はほとんど完全になされなかったが、それについては五つの点が挙げられた: モーグル計画には異星人の乗客はいなかった; ロズウェルに異星人がいたと主張する人たちは、何の、どこの、そして何人の異星人が回収されたと思われるかについて合意ができておらず、これらの主張の多くがでっちあげであると証明されている; 異星人の主張はしばしば偽名を用いた人々によってなされる; 長いスパンの時間が善意の目撃者に過去の出来事の誤った解釈を引き起こさせているだろう(pp.30-31)。
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