モンドラーネの反乱 (1964–69)
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「モンドラーネの反乱 (1964–69)」の解説
開戦時、7,000人の武装兵力しか持たなかったFRELIMOははるかに大きな兵力を持つポルトガル軍に対して軍事的勝利を収める見込みはほとんどなかった。独立の可能性はポルトガル軍に対する軍事的勝利ではなく、政治的交渉によるリスボンからの独立を勝ち取ることにあると考えられていた。 ポルトガル政府は開戦以降常に戦争状態に置かれていたが、1964年から1967年にかけて駐留兵員数を8,000人から24,000人に増派することで不穏な状態を収めようとしていた。。この期間中、ポルトガル政府によってこの地方向けの兵員が23,000人新規に募集されている。また、1969年までに860の作戦可能な特殊部隊が編成されている。 FRELIMOの軍事部門はアルジェリアで訓練を受けたフィリペ・サムエル・マガイアの指揮下にあった。また、FRELIMOのゲリラ兵力はソビエト連邦・中華人民共和国から様々な兵器の供給を受けていた。 対照的にポルトガル軍は新しい対暴動作戦を評価されているアントニオ・アウグスト・ドス・サントス司令の下で作戦を遂行した。アントニオ・アウグスト・ドス・サントスはローデシアと共同してアフリカ人のスカウト部隊やその他の特殊部隊を編成し、作戦行動の一部をローデシア軍と共同して行った。 1964年になって平和的な交渉をFRELIMOは断念し、1964年9月25日、エドゥアルド・モンドラーネはタンザニア国内の拠点からモザンビーク北部に対するゲリラ戦の開始を命令した。 FRELIMOの部隊は地方の住民から補給の便宜を受け、カボ・デルガード州のシャイシャイ(Chaichai)を攻撃した。FRELIMOの武装勢力は古典的なゲリラ戦法を用いた。哨戒部隊への襲撃、鉄道および通信線の妨害、植民地施設に対する電撃的な襲撃などが挙げられる。反乱勢力は主にライフル銃や短機関銃等で武装しており、退却時の追撃を避けるため雨季を最大限に利用した。豪雨の状況下ではポルトガルの制空権下でも航空機によって襲撃した部隊を追跡することは難しく、また、陸上部隊や車輛を使用しても嵐の中で移動する部隊を発見することは困難だった。これに乗じて反乱勢力の部隊は、より軽装で、マトと呼ばれる低木地帯まで逃走し、現地の住民に溶け込むことが可能だった。さらにFRELIMOの部隊は周囲の自然環境や村落から食料を徴発することが可能だったため、長い補給線による行動の制約を受けなかった。 FRELIMOのシャイシャイに対する攻撃開始に伴い、ニアサやモザンビーク中部のテテにも戦闘地域は拡げられた。紛争の初期の間はFRELIMOの活動は小隊規模での接触、妨害活動、軍事施設への小規模な襲撃に限られていた。FRELIMOの兵士はしばしば10人から15人の小グループ単位で作戦活動を行っていた。 FRELIMOの紛争初期における散発的な攻撃は拠点に集中配備されたポルトガル軍を分散させようと企図されたものだった。 開戦後、ポルトガル軍は1964年11月のシラマ (Xilama) 北方の戦闘で初めて損耗しはじめた。 モザンビーク大衆からの支援の増加と、平時配置されたポルトガル軍の規模の小ささにより、FRELIMOは南方のメポンダ (Meponda) やマンディンバ (Mandimba) にも進出することができた。これらの地域はテテを通じて隣国の1964年7月6日にイギリス連邦の一員として独立したばかりのマラウィ共和国から支援を受けることができた。しかしながらFRELIMOの作戦規模が拡大しているにも関わらず、補給線がルブマ川とマラウィ湖でカヌーを利用していたことから、攻撃は前哨部隊を対象にした小規模なものに限定されていた。FRELIMOは1965年に入って民衆からの支援の増加もありこの時点で新兵の採用数が増加に転じた。この増加で、襲撃部隊の規模を引き上げることが可能になった。FRELIMOに対する民衆の支援は主に追放されたり紛争を避けるためにタンザニアに避難したモザンビーク人によるものであった。こうした紛争の形態はフランス軍やアメリカ軍に対するしてベトナムで行われた紛争(インドシナ戦争・ベトナム戦争)における内陸部での抵抗にも見られたものである。反乱勢力は攻撃に際し地雷を併用してポルトガル軍の被害を大きく拡げ、部隊の施設を機能不全に陥らせ、兵員の士気を低下させた。 1966年10月10日または10月11日、前線からタンザニア領内に向けて帰還中のFRELIMOの軍事部門のリーダー、フィリペ・サムエル・マガイアが狙撃され、死亡した。この狙撃はポルトガルによって雇われたFRELIMOのゲリラ兵によって行われたといわれている。 1967年の時点でFRELIMOは人口の7分の1と国土の5分の1を掌握していた。またこの時点でのFRELIMOの兵力は戦闘状態にある者だけで約8,000名を数えていた。またFRELIMOの襲撃部隊は場合によっては100人以上の兵士によって構成されるものになり、その階級体系の中に女性兵士も組み入れることになった。 この時期、モンドラーネは戦線の拡大を促進していたが、同時に小規模な攻撃グループを維持しようともしていた。ポルトガルからの解放区が拡大し、増大した人口に対して十分な補給を行う場合、それにつれて兵站にかかるコストも増大することが見込まれた。そのためモンドラーネはこの時点でソビエト連邦と中華人民共和国を初め各国に支援を求めた。その結果、大口径の機関銃や対空砲、75mm無反動砲、および122mmロケット砲等を受け取った。 1968年、FRELIMOの第2回大会が行われたが、この際制空権を持っていたポルトガル軍の大会会場への爆撃が一日遅れたため、大会は無事執り行われ独立勢力にとって宣伝的な勝利をもたらした。 この結果は後の国連におけるFRELIMOの発言に大きな重みを与えることになった。
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