バブル崩壊と経営破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:10 UTC 版)
「日本債券信用銀行」の記事における「バブル崩壊と経営破綻」の解説
バブル崩壊によって、ノンバンクや不動産業向け融資が巨額の不良債権と化し、1991年から行われていた不良債権をペーパーカンパニーに付替える、いわゆる「飛ばし」行為による粉飾決算は、第8代頭取である松岡誠司以降により本格化する。 日債銀は保有株式の売却や債権買収機構などを積極活用し、1993年から実施した中期経営計画(3年間)の下で新たな対応が進めるが、経営危機はより深刻度を増した。1994年4月には海外から全面撤退、またクラウン・リーシング(負債約1兆1187億円)など系列ノンバンク3社を破綻処理し、1996年3月期決算は初の赤字決算となる。赤字の計上に先だって、1993年に大蔵省理財局長を経て国税庁長官を歴任した窪田弘、1996年には日本銀行国際局長を歴任した東郷重興をそれぞれ経営首脳に迎え、事実上大蔵省・日銀管理銀行となる。 1997年3月には自己資本比率が国内基準の4%を割り込む水準まで低下する。再建策として翌月、大蔵省が中心となり、全支店の売却および各金融機関および新金融安定化基金(日銀拠出を含む)よりいわゆる奉加帳増資で合計2,900億円を調達している。当時の日債銀・資本勘定の3倍に相当する金額であったが、引受側の各金融機関には東京証券取引所規則により「原則として割当株式の2年間売却凍結」との制限が付いた。これが後々に、日債銀株価の奇妙な安定を裏で支える要因となる。続いて1998年3月に金融危機管理審査委員会(委員長・佐々波楊子慶大教授)の決定で、600億円の公的資金を注入した。 1998年初めから、同じ長信銀の日本長期信用銀行の経営危機が話題になり始め、同年6月に月刊『現代』が「長銀破綻で戦慄の銀行淘汰が始まる」との記事を掲載すると長銀の株は下落し、関心が集中した。そして、株価下落と資金繰りに行き詰ったことによりマーケットから退場を迫られた長銀は、同年10月に特別公的管理下・国有化された。 長銀の国有化を受け、「長信銀の中で最も弱い日債銀が生き残るのはおかしい」という見方が政界に広がり、日債銀も破綻処理すべきだとの流れができていく。その渦中、窪田から頭取を引き継いだ東郷は生き残りを懸け、中央信託銀行との合併交渉を重ねた。交渉で中央信託も前向きな姿勢をみせるも、発表直前に態度を翻し、同年12月9日に両行は業務提携を発表するにとどまった。中央信託が翻意にした理由は明らかとなっていないが、金融当局の働きかけがあったとみる金融関係者は多い。結局、日債銀は同年12月13日、金融庁検査における実質2,700億円の債務超過が認定され、金融再生法により、特別公的管理下・一時国有化が決定された。
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バブル崩壊と経営破綻
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「新潟中央銀行」の記事における「バブル崩壊と経営破綻」の解説
相互銀行から普通銀行に転換した時期を境に、特に5代目頭取の大森龍太郎率いる上層部の同族経営かつワンマン経営による乱脈融資が行内で深刻化した。 なかでも、バブル経済末期から平成不況へと変遷した1990年代前半から末期の1997年にかけて採算性を考慮せず、全国各地にゴルフ場や遊園地を次々と開設したことが後に大痛手となる。 この間に笹神ケイマンゴルフ場、東軽井沢ゴルフクラブ、富士中央ゴルフ倶楽部、オセアニア構想と言われた遊園地の新潟ロシア村・柏崎トルコ文化村・富士ガリバー王国を開業していた。 いずれの施設もファミリー企業のように実質支配下としていた各デベロッパー会社へ、多額の融資を行い開業させたものであった。 これらのほかにも、建設業やリゾート開発など不動産関連業種の融資に偏重して不良債権を急増させている。 バブル崩壊後の1999年(平成11年)6月、金融再生委員会は新潟中央銀行が自己資本不足に陥ると判断、早期是正措置を発動するに至った。 銀行内では同年9月までに約200億円の第三者割当増資を計画するも、公式に支援に名乗りを上げ主力割当先と期待された英会話教室チェーンNOVAをはじめとする各社が先行きを懸念して引き受けを拒否する事態が発生。 9月下旬以降預金流出が加速した。 10月1日には自己資金不足による債務超過から、銀行間内国為替業務における為替決済取引上の債務不履行が発生。 日銀は債務不履行分を立替払いして処置し結了するが、これにより経営陣は自主経営を断念することになった。 10月2日、経営陣が金融再生法に基づく破綻処理を申請、金融再生委員会は破綻処理を認めて経営破綻した。 日本において預金取扱金融機関が銀行間の内国為替決済システムで決済資金に支障を発生させたのは、新潟中央銀行のケースが平成では最初であった。 日銀が立替払いした金銭は後に日銀特融へ振替えとなっている。 この年は第二地方銀行の経営破綻が相次ぎ、当行で5行目で、当行と国民銀行、幸福銀行、東京相和銀行は同族経営だった。
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