バブル崩壊とそごう破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:50 UTC 版)
1960年代には全国に3店舗しかなかったそごうグループは、そごう30店舗構想「トリプルそごう計画」を掲げた水島の手腕で多店舗展開を推進し、1990年代には日本全国に30店舗を抱えるまでに成長する。また東南アジアを中心に海外進出も果たし、最盛期には国内外で40店舗を誇った。 駅前再開発でそごうを誘致し、再開発ビルの核店舗として出店するというケースが多かった。1973年に柏駅再開発で出店した柏そごうをはじめ、1983年に八王子駅北口駅ビルへ市内最大の百貨店として出店した八王子そごう、1985年に横浜駅東口に建設された横浜新都市ビルに巨大基幹店として出店した横浜そごう、多摩ニュータウンに相次いで出店したココリア多摩センターの多摩そごう(1989年)とガレリア・ユギの柚木そごう(1992年)など、首都圏では「レインボーの法則」に基づき東京都心ではなく周辺の駅前一等地に大型店舗を次々出店した。また、北海道から四国や九州に至るまで全国の地方都市にも進出した。 開店した店舗の土地を担保に銀行から融資を引き出し、また次の店舗を出店するという手法で急速に店舗網を増やしたが、その頃には1兆数千億円の貸し出しを受けていた。1991年10月の「トリプルそごう計画」達成となる30店目の川口そごう開業を境に、経営は徐々に悪化した。 1994年に水島はそごう社長から退き会長となる。代わって、興銀と日本長期信用銀行から送り込まれた2人の副社長がそごうの表の顔となった。しかしバブル崩壊で経営悪化した他の百貨店と同じく、そごうも経営危機が囁かれたが、各店舗が株を持ち合う複雑なそごうグループの実態は水島しか把握できないとされ、メインバンクの興銀の介入を許さず、バブル崩壊後も水島が引き続きそごうグループを牛耳り続けた。 百貨店業界の他社幹部は「行け行けどんどんの時は(そごうを)脅威に感じたものでした。しかし景気が下降曲線を描くに従い、土地の含み益を利用した作戦が裏目に出た」と語った。また水島の教え子である函館大学学長の河村博旨は「水島先生の理論は、要するに信頼関係の尊重。企業がずっと続いていくことを前提にして、丸ごと評価して金を借りられるようにした」と説明している。土地は必ず値上がりするという土地神話に頼った水島の出店方針は、バブル景気の崩壊により行き詰まった。 2000年に水島はそごう会長も辞任。その直後にそごうは1兆8,700億円の負債を抱えて倒産した。放漫経営を疑う追及に対しては、水島は「堅実経営だった」として法律の専門家の立場からも反論し、経営破綻の原因としてバブル崩壊と旧長銀の破綻を予測できなかったことを挙げた。
※この「バブル崩壊とそごう破綻」の解説は、「水島廣雄」の解説の一部です。
「バブル崩壊とそごう破綻」を含む「水島廣雄」の記事については、「水島廣雄」の概要を参照ください。
- バブル崩壊とそごう破綻のページへのリンク