バブル崩壊と経営悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:42 UTC 版)
「日本長期信用銀行」の記事における「バブル崩壊と経営悪化」の解説
1988年(昭和63年)、当時の頭取・酒井守は常務会において新たな経営計画を提示した。その内容は、これまでの少数精鋭による投資家向けの金融商品の販売などを柱とした経営戦略から大転換し、行員の大量採用によって不動産関連融資を拡大しようという内容だった。この常務会の席上、「将来の頭取候補」と呼ばれた役員の1人が強い口調で慎重論を唱えたが、あっさりと却下されたばかりか、まもなく、関連会社への出向を命じられた。翌1989年(平成元年)4月、融資拡大を積極的に進める「第六次長期経営計画」がスタートされ、同年6月、堀江鉄弥が頭取に就任、積極的な融資攻勢を行った。反面、この「第六次長期経営計画」反対派とレッテルを張られた役員らは、出向などの形で長銀から放逐されていった。仲間意識を求める長銀の伝統が強く支配していたとされる。 こうして、バブル景気末期には、貸出残高における流通・サービス・建設・不動産、住宅金融専門会社を中心とする金融業・保険業向けのシェアが高くなっていたが、バブル崩壊後に多額の不良債権を抱え込む結果となった。中でも、杉浦が融資を後押したイ・アイ・イ・インターナショナルに対する債権3,800億円が焦げ付いたことは致命傷となり、多額の不良債権の償却を余儀なくされた。また同グループ関連で経営危機に陥った東京協和信用組合と安全信用組合の支援(二信組事件)のため多額の出資も行った。このため、1990年代後半より経営不安がささやかれるようになる。 特にノンバンクへの融資が突出しており、長銀系列の御三家ノンバンクである日本リース、日本ランディック、エヌイーディーの3社は、1997年の時点で総計約1兆2000億円の不良債権を作った(業界二位の日本リース社の債務は更に膨らみ、後に約2兆1800億円と戦後最大の倒産)。 1991年(平成3年)12月末の役員会で、堀江頭取は鈴木克治専務より「グループ全体の不良債権額が2兆4千億円を超えました」と報告を受けたが、堀江が採用した対応策は本部事業推進室が中心となり受け皿会社に不良債権を「飛ばす」事であった。堀江は頭取在任中この対応策を見直そうとせず、1994年(平成6年)2月には、より本格的に不良債権隠しを進めた。 バブル期には不動産開発の審査が杜撰になっており、特にバブル崩壊後に調査された海外案件は「開発目的で取得した土地に開発許可が下りておらず二束三文にしかならない」「一流ホテル建設予定地に多数の路上生活者が住み着いている」「最高級リゾートの建設地だが、浅瀬であり一日の半分は水没している」などと散々な事例ばかりであった。アメリカの貿易赤字是正のために日本銀行から課された貸出増額枠、いわゆる「日銀枠」が課され、貸出枠が減ることを恐れた長銀を含む各銀行はそれを消化するために必死になり、これも融資管理が杜撰になった原因とされる。バブル崩壊後に行った地価のシミュレーションにおいても「今後10年の地価が下落する」というシミュレーションを想定しておらず、このような土地神話に基づく楽観論も長銀を後に苦しめた。
※この「バブル崩壊と経営悪化」の解説は、「日本長期信用銀行」の解説の一部です。
「バブル崩壊と経営悪化」を含む「日本長期信用銀行」の記事については、「日本長期信用銀行」の概要を参照ください。
- バブル崩壊と経営悪化のページへのリンク