バブル崩壊と阪急資本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 07:04 UTC 版)
1929年(昭和4年)3月、小笹が同社を退社、出版事業等にも手を出して没落した親会社・八千代生命が映画製作事業から撤退、牧野の長女の夫・高村正次が京都撮影所長に就任し、事業の立て直しを図った。1930年(昭和5年)に阪急電鉄の小林一三が設立した「宝塚映画」に働きかけ、資金面での提携を図った。 1931年(昭和6年)9月、同社の製作代行をする会社として「東活映画社」が設立され、高村は退陣、安倍辰五郎が「東活映画等持院撮影所」の所長に就任した。高村は小説家・映画プロデューサーの直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」、「正映マキノ」を設立してゆく。 翌1932年(昭和7年)10月、わずか1年で東活映画社が解散し、東亜キネマは製作事業をついに断念、「等持院撮影所」を閉鎖する。同年11月、「正映マキノ」の高村が再度登場し東亜キネマを買収、「御室撮影所」に宝塚キネマを設立、東亜キネマはその9年間の歴史に幕を閉じた。「等持院撮影所」は競売に付され、翌1933年(昭和8年)5月には住宅地となった。
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