バブル崩壊とメガバンク再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 00:33 UTC 版)
「住友銀行」の記事における「バブル崩壊とメガバンク再編」の解説
年号が平成に変わるころから、過剰な不動産・証券投資の反動が生じるなどのいわゆるバブル崩壊の影響が、日本経済に現れ始めた。住友銀行でも、1990年5月、日本経済新聞のスクープによりイトマン事件が報道される。住友銀行傘下のイトマン向け融資総額は1990年末には5,000億円を超えていたことが発覚。 事の起こりはイトマンが東京青山に東京本社を建てるための地上げが進まなかった際に、住友銀行名古屋支店が、イトマンに対し山口組の関係者である伊藤寿永光(いとう すえみつ)を仲介屋として紹介したことにあった。いきなりイトマンの幹部となった伊藤寿永光は、暴力団とのコネを使うことで地上げを次々と行い、その他の暴力団とのトラブルも収束させイトマンの不動産部門を担う筆頭常務にまでなった。 住友銀行はイトマンに巨額の不正融資を次々に行い、地上げをさせ、形の上では日本一の収益を上げていた。その結果として1990年3月末のイトマンの不動産関連の借入金は1兆1800億円にも達し、バブル崩壊とともに大部分が不良債権となった。最後には不良債権の7000億円以上の金が行方不明となり、野村證券の田淵節也会長や中曽根康弘、佐藤信二、三塚博、亀井静香の名前が取り沙汰された。 続く同年10月、横浜の住友銀行青葉台支店長が、蛇の目ミシン恐喝事件で注目されていた仕手集団「光進」に対し巨額融資の仲介を行い、出資法違反(浮貸し)で逮捕された。相次ぐ不祥事の中、同年9月、大蔵省銀行局検査が4か月の長きにわたって開始され、同年10月、当時会長だった磯田は辞任に追い込まれた。 バブル崩壊で発生した不良債権に対して、1995年3月期決算では8,000億円を超える償却処理を実施し、当時の金融界では異例の経常赤字決算となった。不良債権処理を優先させたもので、他の都銀に先駆けて収益力を回復させる目論見であったが、その後も五月雨式に不良債権処理が続くことになる。 こうした過程で、“闇社会”との軋轢が徐々に表面化、1993年春から、住友グループ幹部宅を狙った襲撃事件が10件以上起きており、住友銀行横浜駅前支店で銃弾1発も打ち込まれていた。また1994年9月14日に住友銀行取締役名古屋支店長がオートロック式のマンション内で後頭部を銃撃された(住友銀行名古屋支店長射殺事件)。伊藤寿永光をイトマンに紹介したのが名古屋支店であったため、イトマン事件に関連する事件ではないかと報道された。 1997年に、「最後のバンカー」と称される西川善文が頭取に就任する。不良債権処理に伴い、海外拠点も縮小を余儀なくされ、1925年以来、第二次大戦を除き業況を拡大していた加州住友銀行は、1998年にZions Bancorpに売却(現在“California Bank&Trust”と行名変更)し、1999年にはゴッタルド銀行も売却している。 1999年10月、住友銀行はさくら銀行との合併を発表する。当時、さくら銀行は、不良債権処理に伴う株式含み益の大幅な減少や株価の低迷が続き、大きな負債を抱え経営危機に陥っており、経営の抜本改革を模索していた。一方、住友銀行は、バブルや失われた10年でも発生した不良債権の処理問題や、財務体質は強い ものの、企業・個人の顧客増が伸び悩み今後の収益の大幅な向上策を探っていたこと、また資産規模や収益で他を圧倒する東京三菱銀行との格差が大きく首都圏の顧客基盤は比較的弱いという悩みを抱えていた。 こうした両者の思惑が、300年間にわたる財閥の垣根を超えた合併を実現させたのである。もっとも、当時の一般的な反応は、「住友銀行によるさくら銀行の救済」という捉え方であり、合併発表の記者会見では、「さくら銀は経営的に弱い銀行と見られていた。なぜ、住友銀は救済する必要があったのか」との質問が出た。これに対して、西川は「その意見には全く同意できない。決して危ない銀行ではない。今回の提携は救いの手をさしのべるというものでは絶対にない。救済という考えで提携するものではない。無責任なものの言い方には憤りを感じる」と回答している。 2001年4月1日、住友銀行を存続会社としてさくら銀行を吸収合併し三井住友銀行に商号変更した。
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