ド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタン
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「フランスの経済」の記事における「ド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタン」の解説
アルジェリア戦争により、第四共和政から第五共和政に政権は移行し、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任した。ド・ゴールの任期中(1958年~1969年)、国内では経済成長につれテレビ・洗濯機・冷蔵庫・自動車等の耐久消費財が普及した。同時代の日本の高度経済成長には及ばないものの、1960年代のフランスは年平均5.7%の経済成長を果たした。これに並行して、イル=ド=フランスなどの経済の中心地域と、西部・南西部・中部といった農村地域との間に経済格差が生まれた。農業の近代化とともに第一次産業の従事者が減少する一方、新しい中間層としてホワイトカラーが増加していった。 1963年シムカをクライスラーに、1964年マシンブルをジェネラル・エレクトリックに買収され、ド・ゴール政権は外資に対して規制を厳しくするようになった。抗議の意味をこめてフランスは1966年に北大西洋条約機構を脱退した。内政では同年7月29日、政府が鉄鋼業界と協約を結び、合理化(実態は合理化カルテルの促進)を条件に手厚く保護した。公共事業10億フランの斡旋、補助金3億フランの拠出、1970年まで売上げの1%に満たない法人税という大盤振る舞いであった。そして何よりも27億フランに達する経済社会開発基金貸付が注目を浴びた。これはインフレ上昇分を考えると実質18億フランの贈与であるとH. Sègre に分析されている。 対英米路線は片手落ちだった。1967年にECSC・EECが発展解消してEC が成立した。EC は公務員の国籍要件を骨抜きにした。国防に直接の関係がないという理由で、国家出資庁が支えている公企業であるにもかかわらず、公共交通機関・電気通信・保険金融といった分野に外国人が登用されていった。そして彼らは外資に対する規制を緩和してゆき、ちょうど1968年の五月革命のころに完全自由化された。はかなくもド・ゴールはイギリスなど4カ国のEC 加盟に反対し続けたが、ECSC という鉄鋼カルテルの呪縛から逃れることはできなかった。任期中の経済成長を新聞に載る程度に浅く論じれば、エネルギー革命により安価な石油が利用できたことや、オフショア市場により世界的好況が演出されたという背景が指摘できる。しかしより直接の原因は巨額の財政支出と外資流入であり、それらは共に鉄鋼カルテルに由来した。1969年、ド・ゴールは辞任した。 同年の選挙に勝利したジョルジュ・ポンピドゥー(1969年~1974年)はフランス・フランの切り下げや産業再編を試みた。1973年に大きなできごとが3つ起こった。一つはイギリスのEC加盟である。もう一つはオイルショックであり、フランス経済は高失業・インフレというスタグフレーションに陥った。最後は欧州特許条約である。フランスが大不況期に取りまとめた工業所有権の保護に関するパリ条約は、戦前から電気系企業の要請を受けて改正されてきた。そしてついに欧州特許条約が特則となって、欧州特許庁はECから特許の所管を切り離したのである。1974年4月に白血病でポンピドゥーは死んだ。この前後それぞれ3ヶ月ほどにフランス・フランが非常な人気を呼び、欧州通貨制度を一次離脱したり、銀貨をより安価な金属で置き換えたりした。 金融畑のポンピドゥーは外国銀行に手厚かったし、後継のジスカール・デスタンも同路線を受けついだ。1970年から1977年に外国預金銀行の資産は激増した。以下100万フラン単位で具体例を挙げる。シティバンク893から17282で19.35倍、北欧商業銀行5227から15540で2.97倍、モルガン・ギャランティー3647から12159で3.33倍、バンカメ831から9825で11.82倍、チェース・マンハッタン3619から9799で2.70倍、東京銀行556から4758で8.56倍、バークレイズ501から4710で9.40倍となった。他にモルガン系のケミカルやロックフェラー系のファースト・ボストンもやってきて、それぞれ資産を1977年に52億と30億フランにした。ウェストミンスター銀行も資産を55億フランにした。ブラジル銀行は54億ドルとなった。 当時の間接金融離れで成長した米国資本の進出が目立つ。 新たに大統領へ選出されたヴァレリー・ジスカール・デスタン(en)(1974年~1981年)は、1975年に第1回先進国首脳会議をランブイエで開催した。また、フルカート蔵相とレイモン・バール首相が共に緊縮政策を実施した。スタグフレーションは加速してしまい、1977年に鉄鋼業界で前年比の生産実績が急激に落ち込んでいた。営業損失が資本調達費用をいれて40億フランに迫った。1978年6月30日、主要鉄鋼会社の借入金は、Groupement des industries sidérurgiques から110億フラン、銀行から93億フラン、経済社会開発基金から85億フラン、クレディ・ナショナルから12億フランとなった。1974年から1979年の間に極端な原発建設が推進されて35基も新しくできた。1979年に再びオイル・ショックが起こり、1979年に3.5% まで回復した実質経済成長率が1981年には0.9% にまで落ちた。
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