ドラッグレースとの出会い、レース活動の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
「吉村秀雄」の記事における「ドラッグレースとの出会い、レース活動の開始」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 吉村秀雄がドラッグレースにに参加していたBSA・ゴールデンフラッシュ(英語版)(1961年) 吉村秀雄が当時乗っていたBSA・スーパーロケット(英語版)(1963年) 開業して2年が経った頃、1人の米兵が板付基地の補助滑走路で開催されていたゼロヨンのレースに吉村を誘った。キャブトン600で参加した吉村は久しぶりに味わう真剣勝負に魅了され、どうすれば速く走れるのか、エンジンの性能は上がるのかと試行錯誤を始めた。そんな中、代理店業務を行っていたバルコム・モータース、山田次郎の「カムシャフトのベース円を削るとバルブのリフト量が増える」という言葉を受け、愛車BSAゴールデンフラッシュのカムシャフトに加工を施し、テストを繰り返してはドラッグレースに参加するようになっていった。吉村のマシンはゼロヨンで11秒台を記録し、他のマシンより1秒から2秒は速く、強さは圧倒的であった。また、吉村はレースのみならず、KTA(九州タイミング・アソシエーション)というオートバイの組織運営にも協力し、米兵と日本人との親善交流やレースの運営も務めた。安全運転講習を行うなど地域社会に対する貢献が評価され、板付基地の司令官から表彰されることもあった。 1955年、全日本オートバイ耐久ロードレースが初開催、1958年、アマチュアライダーを対象にした全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースが初開催、1961年、ホンダがロードレース世界選手権125cc、250cc両クラス制覇、1962年、日本で初めて本格的なサーキットである鈴鹿サーキットが完成と、モータースポーツに対する関心が年々高まる中、速いマシンを作る男が九州にいるという評判が広まると、吉村のもとには多くの人が集まりだした。後に2輪と4輪のレースで活躍する高武富久美もその1人であった。なお、この頃吉村は全日本モーターサイクルクラブマンレースを九州で開催するため、同協会で理事を務める酒井文人へ直訴を行うなど誘致に尽力し、1962年には第5回大会を雁ノ巣で開催することに成功した。地元で開催されるにあたり吉村本人もBSA・650ゴールデンフラッシュで参加し、トップを快走するものの6周目に転倒。脳震とうを起こし、これ以後ライダーとしてはロードレースから身を引くこととなった。 ヨシムラモータースは全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースに参戦し、各地で好成績を納めたものの、この頃には進駐軍が板付基地からの撤退を決定。ホームであった板付基地や雁ノ巣飛行場でのレース活動が下火になっていくことは目に見えていたため、何らかの対応が必要であった。吉村には2つの考えがあり、1つはこのまま日本のロードレースの発展と共に活動拠点を東京へ移すこと。立川基地や横田基地には懇意にしていた多くの米兵たちが板付基地から転属になっていたため、当面の仕事に事欠かないという考えもあった。もう1つはアメリカへ帰国していった米兵たちの要望に応えて共にアメリカでレース活動を行うことであった。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ドリームCB72スーパースポーツ ドリームCB77スーパースポーツ CB77用2気筒エンジン 結局、吉村は日本でやり残した事がまだあると判断し、ひとまずアメリカ進出を先送りし、東京へ進出することを決定。九州での活動の総決算として1964年に開催されたMFJ鈴鹿18時間耐久レースへ参加することを決めた。出場マシンはCB72・CB77・登録ライダーはCB72が高武富久美、倉留福生、渡辺親雄、CB77は松本明、青木一夫、そして安部田宏一であった。予選走行中にCB77に乗る安部田が転倒を喫しマシンが大破、マシンの修復と緒方政治へライダーを変更するなどトラブルに見舞われはしたもののレースではホンダやヤマハを相手に互角に渡り合った。高武・倉留・渡辺組は終了およそ2時間前までトップを快走していたもののバルブコッターが破損しリタイア。しかし、トップを争っていたホンダもエンジントラブルに見舞われそのままリタイアし、優勝は松本・青木・安部田組が手にすることとなった。 こうして着実に実績を積んでいく吉村の評価は不動のものとなり、仕事の依頼も増えていった。クラブマンロードレース誘致の際に掛け合った酒井文人からはチューニングに関する記事の執筆を依頼され、吉村はこれを快諾し『月刊モーターサイクリスト』誌の1965年2月号から4月号に「私のチューニングアップ」という記事が掲載された。また、1967年4月号から8月号には「四サイクルのチューニング - CBチューニング」という連載記事が掲載され、これらの連載はチューニングという行為が一般的でなかった時代に大きな反響を呼び、CB72開発陣も参考にするほどの傑出した内容であった。そして、鈴鹿18時間耐久レースで競い合ったホンダからは、翌年新設される市販車ベースによるジュニア・クラスでのマシンの開発の依頼が届いた。当時のホンダは1962年には四輪の開発を開始し、1964年からのF1参戦を発表、WGPでは有力チームとして確たる地位を得ていたが、市販車ベースのレースにまで手が回らなかった。吉村はこの依頼を引き受け、高武富久美や和田将宏の所属するテクニカル・スポーツを担当することとなった。ホンダは依頼にあたり、当時のグランプリマシン開発の拠点であった「GPガレージ」を吉村に対して開放したことからも、その評価と信頼の高さが伺えた。 その後、高武は1966年にMFJ全日本250ccチャンピオンに輝き、レーシングチーム「チーム高武」を主催した。そして、同チームは玉田誠や宇川徹、加藤大治郎などロードレース世界選手権で活躍するライダーを輩出した。高武は吉村に対して以下のように語っている。 あの時、吉村のオヤジが俺の才能を認めてレースに出場させてくれなかったら、今の俺はなかったよ。どうなっていたか分からないね。 — 高武富久美、ポップ吉村の伝説
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