ソウル市街戦と漢江渡河撤退とは? わかりやすく解説

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ソウル市街戦と漢江渡河撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 15:46 UTC 版)

ソウル会戦 (第一次)」の記事における「ソウル市街戦と漢江渡河撤退」の解説

1950年6月28日深夜1時、彌阿里において韓国軍防御線が突破され、ソウル最終防衛線は崩壊した。1時45分北朝鮮軍戦車市内突入したとの報を受け、韓国軍参謀総長はただちに漢江爆破命令して漢江渡って始興向かった一方参謀総長出発直後陸軍本部到着した第2師団長(李亨根准将)、第5師団長(李應俊少将)、第7師団長(劉載興准将)はこの命令の件を聞き第一線部隊後退命令受けないままで戦闘継続中であることから、部隊後退させたのちに爆破するように進言した。参謀副長金白一大佐)もこれに同意し作戦局長張昌国大佐)に橋梁爆破中止するよう命じた。張作戦局長南漢江派出所爆破指揮所に急行したものの、ソウル市内、とくに漢江北岸避難民将兵によって大混乱に陥っており、道路通行極めて困難であった爆破指揮においては参謀総長爆破命令を受け、28日2時20分ごろ、工兵監(崔昌植大佐)は爆破命令下達した。この時、橋梁においては陸軍憲兵警察が、命令なしに後退する車両阻止しようとしていたが、ほとんど統制できなかった。 点火信号同時に人道橋続いて3本鉄橋爆破された。爆破中止命令下達するため急進であった作戦局長は、爆破指揮所まであと僅かのところで大爆音聞いた統制が不十分であったことから、爆破時に橋梁上には4000人の避難民車両があった。この漢江人道橋爆破事件によって約500 - 800名と推定される避難民犠牲となったまた、北漢江派出所付近では破片によって40余両の車両大破し多く人員負傷した。そして、韓国軍主力部隊退路遮断され、これらを支援していた1,318両の車両装備品補給品漢江北岸取り残され北朝鮮軍の手中に落ちた。しかし装薬不発により、京釜線複線鉄橋京仁線単線鉄橋が完全に破壊されず、のちに北朝鮮軍戦車漢江渡河を許すことになり、作戦大きな影響及ぼした北朝鮮軍ソウル中央部突入したのは、28日1130分ごろであった韓国軍には組織的な市街戦行なう用意がなく、市内にいた首都警備司令部および第1工兵団の一部、また後退してきた部隊部隊ごとに戦闘展開した三角地と麻浦方面で警戒当たっていた首都警備司令部隷下の第18連隊第1大隊は、北朝鮮軍戦車対する57mm対戦車砲および肉薄攻撃攻撃効果なかったものの、対空射撃班が北朝鮮軍戦闘機撃墜することに成功した一方、彌阿里線より後退した第5連隊第3大隊一部部隊は、清凉里において北朝鮮軍戦車12両と歩兵部隊市内侵入しているのを発見し肉薄攻撃敢行したものの、戦車破壊確認できず、10名の特攻隊のうち3名のみが帰還した南山においては参謀学校李龍文大佐のもとに集まった中隊規模将兵白虎部隊の名称で最後まで抗戦し生存者遊撃戦転じたソウル大学病院では警備小隊最後まで抗戦し全員戦死、また100余名入院患者80余名裏山上って抵抗し全員戦死したが、その後侵入した北朝鮮軍入院患者に対して乱射加えた。これら部隊抵抗組織化されてはいなかったが、極めて頑強で、またソウル外郭防衛線の部隊はなお組織的に抵抗続けており、北朝鮮軍は彌阿里線を突破したのちさらに漢江線に進出するまでに10時間を要するほどであった漢江橋梁爆破され時点で、韓国軍主力である第2、第3、第5、第7師団首都防衛司令部部隊は、依然としてソウル外郭防衛線において戦闘継続中であり、また、第1師団坡州南側陣地固守し小規模な反撃繰り返すことで北朝鮮軍攻勢阻止し続けていた。しかし、橋梁爆破され、また北朝鮮軍市内突入したことを知った各部隊は、雪崩打ったように後退開始したその様相について、日本陸上自衛隊幹部学校(旧陸大)の戦史教官たちによる陸戦研究普及会は、 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}韓国軍主力は、北朝鮮軍強圧さることながら、自ら過早退路遮断したことが決定的な要因となって信じられ速度崩壊していった と評している。 汶山正面戦闘していた第1師団および増援部隊は、奉日川西南二山浦および金浦空港近くの幸州での分散渡河余儀なくされたが、二山においては上陸点で北朝鮮軍攻撃受けて大損害を蒙った。同師団および配属部隊は、国境会戦からソウル会戦にかけて戦死行方不明3500名を出したが、その多く渡河時の損害であった。同師団は、渡河時には5000名に減少していたが、人力担送可能な装備全て携行していた。 彌阿里正面防御戦闘展開していた混成部隊は、麻浦、賀中里西江)、西氷庫、漢南洞、纛島(トクソム)、クァンナルの各渡し場より渡河した。このうち国境会戦当初より戦闘続けていた第7師団は、漢江渡ったときには1200名に減っており、携行している重装備機関銃4丁のみであった。 クァンナルで渡った部隊はまっすぐ水原集結し、西氷庫、漢南洞、纛島で渡った部隊水原始興に、幸州、賀中里、麻浦で渡った部隊大部分始興集結した撤退部隊集結は、28日夜ないし29日朝には概ね完了した。しかしその後も、ソウル市においては脱出機会逸した韓国軍将兵潜伏しており、個人単位での原隊復帰続いたが、北朝鮮軍に捕えられた例も多かった7月29日にはソウルから脱出出来なかった安秉範准将ソウル市内の仁王山割腹自殺している。

※この「ソウル市街戦と漢江渡河撤退」の解説は、「ソウル会戦 (第一次)」の解説の一部です。
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