ソウル市街戦と漢江渡河撤退
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「ソウル会戦 (第一次)」の記事における「ソウル市街戦と漢江渡河撤退」の解説
1950年6月28日深夜1時、彌阿里において韓国軍の防御線が突破され、ソウルの最終防衛線は崩壊した。1時45分、北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報を受け、韓国軍参謀総長はただちに漢江橋の爆破を命令して、漢江を渡って始興に向かった。一方、参謀総長の出発直後に陸軍本部に到着した第2師団長(李亨根准将)、第5師団長(李應俊少将)、第7師団長(劉載興准将)はこの命令の件を聞き、第一線部隊が後退命令を受けないままで戦闘を継続中であることから、部隊を後退させたのちに爆破するように進言した。参謀副長(金白一大佐)もこれに同意し、作戦局長(張昌国大佐)に橋梁爆破を中止するよう命じた。張作戦局長は南漢江派出所の爆破指揮所に急行したものの、ソウル市内、とくに漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱に陥っており、道路の通行は極めて困難であった。 爆破指揮所においては、参謀総長の爆破命令を受け、28日2時20分ごろ、工兵監(崔昌植大佐)は爆破命令を下達した。この時、橋梁においては陸軍憲兵と警察が、命令なしに後退する車両を阻止しようとしていたが、ほとんど統制できなかった。 点火信号と同時に、人道橋、続いて3本の鉄橋が爆破された。爆破中止命令を下達するため急進中であった張作戦局長は、爆破指揮所まであと僅かのところで大爆音を聞いた。統制が不十分であったことから、爆破時にも橋梁上には4000人の避難民と車両があった。この漢江人道橋爆破事件によって約500 - 800名と推定される避難民が犠牲となった。また、北漢江派出所付近では破片によって40余両の車両が大破し、多くの人員が負傷した。そして、韓国軍主力部隊は退路を遮断され、これらを支援していた1,318両の車両や装備品、補給品が漢江北岸に取り残され、北朝鮮軍の手中に落ちた。しかし装薬の不発により、京釜線の複線鉄橋と京仁線の単線鉄橋が完全に破壊されず、のちに北朝鮮軍戦車の漢江渡河を許すことになり、作戦に大きな影響を及ぼした。 北朝鮮軍がソウルの中央部に突入したのは、28日の11時30分ごろであった。韓国軍には組織的な市街戦を行なう用意がなく、市内にいた首都警備司令部および第1工兵団の一部、また後退してきた部隊が部隊ごとに戦闘を展開した。三角地と麻浦方面で警戒に当たっていた首都警備司令部隷下の第18連隊第1大隊は、北朝鮮軍戦車に対する57mm対戦車砲および肉薄攻撃の攻撃は効果なかったものの、対空射撃班が北朝鮮軍戦闘機を撃墜することに成功した。一方、彌阿里線より後退した第5連隊第3大隊の一部部隊は、清凉里において北朝鮮軍戦車12両と歩兵部隊が市内に侵入しているのを発見し、肉薄攻撃を敢行したものの、戦車の破壊は確認できず、10名の特攻隊のうち3名のみが帰還した。南山においては、参謀学校の李龍文大佐のもとに集まった中隊規模の将兵が白虎部隊の名称で最後まで抗戦し、生存者は遊撃戦に転じた。ソウル大学病院では警備小隊が最後まで抗戦して全員が戦死、また100余名の入院患者中80余名が裏山に上って抵抗し、全員が戦死したが、その後に侵入した北朝鮮軍は入院患者に対して乱射を加えた。これら部隊の抵抗は組織化されてはいなかったが、極めて頑強で、またソウルの外郭防衛線の部隊はなお組織的に抵抗を続けており、北朝鮮軍は彌阿里線を突破したのちさらに漢江線に進出するまでに10時間を要するほどであった。 漢江の橋梁が爆破された時点で、韓国軍の主力である第2、第3、第5、第7師団と首都防衛司令部の部隊は、依然としてソウルの外郭防衛線において戦闘を継続中であり、また、第1師団は坡州南側の陣地を固守し、小規模な反撃を繰り返すことで北朝鮮軍の攻勢を阻止し続けていた。しかし、橋梁が爆破され、また北朝鮮軍が市内に突入したことを知った各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。その様相について、日本の陸上自衛隊幹部学校(旧陸大)の戦史教官たちによる陸戦史研究普及会は、 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}韓国軍主力は、北朝鮮軍の強圧もさることながら、自ら過早に退路を遮断したことが決定的な要因となって、信じられぬ速度で崩壊していった と評している。 汶山正面で戦闘していた第1師団および増援部隊は、奉日川里西南の二山浦および金浦空港近くの幸州での分散渡河を余儀なくされたが、二山浦においては上陸点で北朝鮮軍の攻撃を受けて大損害を蒙った。同師団および配属部隊は、国境会戦からソウル会戦にかけて戦死・行方不明約3500名を出したが、その多くが渡河時の損害であった。同師団は、渡河時には5000名に減少していたが、人力で担送可能な装備を全て携行していた。 彌阿里正面で防御戦闘を展開していた混成部隊は、麻浦、賀中里(西江)、西氷庫、漢南洞、纛島(トクソム)、クァンナルの各渡し場より渡河した。このうち、国境会戦の当初より戦闘を続けていた第7師団は、漢江を渡ったときには1200名に減っており、携行している重装備は機関銃4丁のみであった。 クァンナルで渡った部隊はまっすぐ水原に集結し、西氷庫、漢南洞、纛島で渡った部隊は水原と始興に、幸州、賀中里、麻浦で渡った部隊は大部分が始興に集結した。撤退部隊の集結は、28日夜ないし29日朝には概ね完了した。しかしその後も、ソウル市内においては、脱出の機会を逸した韓国軍将兵が潜伏しており、個人単位での原隊復帰が続いたが、北朝鮮軍に捕えられた例も多かった。7月29日にはソウルから脱出出来なかった安秉範准将がソウル市内の仁王山で割腹自殺している。
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