ジャーナリズムと創作
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「アルベール・カミュ」の記事における「ジャーナリズムと創作」の解説
1936年5月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。1937年5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『異邦人』の原型となった小説『幸福な死』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。 1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい検閲を受けながらで平和主義を唱え続けており、1940年、このために同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めていった。 1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体制下の1940年12月に同地にてオラン出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リニョン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサルトル、ボーヴォワールらとも知り合い親交を深めている。 1944年8月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対独協力派(コラボラシオン)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示し、寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる。終戦前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年にはアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。同年、ガリマール社の企画審査委員会のポストにつき、ここで当時無名だったシモーヌ・ヴェイユを発見し、彼女の叢書を企画、「永久反抗論」に影響を受ける。 1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。しかし、1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間(フランス語版、英語版)』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した(カミュ=サルトル論争)。さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでの彼は次第に孤立を深めていった。
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