アメリカ映画の専門館とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アメリカ映画の専門館の意味・解説 

アメリカ映画の専門館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 07:44 UTC 版)

五反田日活劇場」の記事における「アメリカ映画の専門館」の解説

第二次世界大戦後1950年昭和25年6月東京都品川区五反田2丁目367番地現在の西五反田1丁目314号)に東京セントラル劇場として開館セントラル映画社(CMPE, セントラル・モーション・ピクチュア・エキスチェンジとも)が独占的に配給するアメリカ映画一番館として封切上映するアメリカ映画専門館として営業開始した。同館は、山手線および東急池上線五反田駅から見て目黒川にかかる大崎渡った右手池上線大崎広小路駅にも近い場所に立地していた。同館開館当時五反田駅近辺には、戦前から存在した映画館のうち、山手線内側位置した松竹系一番館五反田劇場五反田1丁目261番地経営・籏興業)と、目黒川沿いに位置しており同館至近であった東京映画配給一番館五反田東横映画劇場(かつての東宝五反田映画劇場、のちの五反田東映劇場五反田2丁目337番地経営東横映画)の2館しか残っていなかった。 同館の正確なこけら落とし作品不明であるが、セントラル映画社が同館の開館月に配給した作品は、2日公開の『山荘物語英語版)』(監督リチャード・ソープ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー1949年)、6日公開の『銃弾』(監督レスリー・セランダー(英語版)、製作ユナイテッド・アーティスツ映画1943年)、13日公開の『腰抜け顔役英語版)』(監督シドニー・ランフィールド(英語版)、製作パラマウント映画1949年)、20日公開の『アマゾンの美女』(監督ジョン・H・オーア英語版)、製作リパブリック映画1948年)、同じく風変りな恋(英語版)』(監督リチャード・ヘイデン、製作パラマウント映画1948年)、23日公開の『海の征服者英語版)』(監督ヘンリー・キング、製作廿世紀フォックス1942年)、27日公開の『ブロンディ仲人の巻(英語版)』(監督フランク・R・ストレイヤー(英語版)、製作コロンビア映画1940年)、同じく凸凹ハレムの巻(英語版)』(監督チャールズ・F・ライスナー(英語版)、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー1944年)、30日公開『ジャンヌ・ダーク』監督ヴィクター・フレミング、製作RKOラジオ映画1948年)である。同館の興行系統一番館であったため、セントラル映画社配給作品は、同館でも公開日封切られた。 開館当時の同館は、経営吉島清衛が代表を務め東京国興行株式会社支配人同社常務取締役近藤百太郎1901年 - 没年不詳)、観客定員684名を収容する鉄筋コンクリート造二階建中規模映画館であった東京国興行は同館に本社を置く企業であり、社長吉島清衛、会長二代目山口仙太郎ともに富山県富山市人物である。東京国興行は、その後山口が代表を務め富山市映画会社中央映画興業株式会社吸収され同社東京支店になり、同館の支配人近藤中央映画興業取締役務めた。同館支配人近藤百太郎は、1920年大正9年)に松竹入社東和商事現在の東宝東和勤務経て1930年昭和5年)ころには教育映画商社東京映画商会の代表を務めた人物である。中央映画興業は、1946年昭和21年2月二代目山口仙太郎富山市設立した中央映画劇場前身とした興行会社で、同館のほか、富山市内で中央映画劇場(のちの富山日活および富山スカラ座2006年閉館)および富山映画会館1970年10月閉館)、同県高岡市内に高岡セントラル劇場セントラル系、のちの高岡大和劇場1996年閉館)を開館経営したセントラル映画社1951年昭和26年12月27日には解体されており、その後は、松竹洋画部組成した洋画チェーンSYチェーン」に参加浅草松竹座新宿武蔵野館渋谷全線座銀座全線座上野スター座、神田日活劇場松竹アカデミー劇場(かつての銀座松竹映画劇場とともに8館のチェーン形成した。同館が発行したチラシ広告によれば1954年昭和29年3月24日松竹洋画部公開した『女ごころ(ノルウェー語版)』(監督アストリズ・ヘニング=イエンセン英語版)、1951年)と同年2月4日松竹洋画部イタリフィルム配給提携して公開した懐かし日々英語版)』(監督アレッサンドロ・ブラゼッティ1952年)を同館では同時上映している。次週控えるのは、同年2月23日パラマウント映画公開した第十七捕虜収容所』(監督ビリー・ワイルダー1953年であった写真2)。高輪生まれ仏文学者巖谷國士1943年 - )が幼少のころ通ったのは、同館が洋画ロードショー館だった時代まで、巖谷回想によれば上映作品のほかに「無数の映像」を上映する趣向があったという。 のちに神田日活劇場銀座全線座とともに同館も同チェーン離脱1958年昭和33年)には五反田日活劇場改称した。同チェーンは、同年4月12日公開された『パリ休日英語版)』(監督ガード・オズワルド(英語版)、製作ユナイテッド・アーティスツ映画1958年)を最後に同年5月解散したこの間1952年昭和27年10月五反田名画座五反田1丁目262番地経営鈴木聰子)、1954年昭和29年8月五反田オリンピア映画劇場五反田1丁目152番地経営東洋興業)、1955年昭和30年12月27日五反田大映劇場五反田1丁目254番地経営大映興行)が開館しており、五反田地区映画館は6館になっていた。

※この「アメリカ映画の専門館」の解説は、「五反田日活劇場」の解説の一部です。
「アメリカ映画の専門館」を含む「五反田日活劇場」の記事については、「五反田日活劇場」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アメリカ映画の専門館」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アメリカ映画の専門館」の関連用語

アメリカ映画の専門館のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アメリカ映画の専門館のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの五反田日活劇場 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS