「極左冒険主義」路線
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「「極左冒険主義」路線」の解説
1951年8月22日、コミンフォルムが4全協支持の論文を発表したことから、国際派は所感派に屈服していった。そのような情勢の中で日共5全協が10月に開かれ、来るべき革命の性質は「植民地革命」「民族解放民主革命」であり、民族解放民主革命のための農村ゲリラ戦路線が決定された。そのために山村工作隊、中核自衛隊が創設された。この路線は大衆運動との結合という視点を欠いており、学生戦線の勢いはこれにより急速に衰退していった。この時期までに京大天皇事件、東大ポポロ事件、渋谷事件が発生している。多くの学生活動家は日共路線に追従し、従わなかったのは武井ら二十数名の少数派のみであった。北海道学連や関西学連は国際派の影響下にある全学連から分裂して「第二全学連」を結成することを呼び掛けた。 1952年1月27日に新綱領が正式に採択されたことにより、日共は3月3日に中執を罷免した。これは前年より、東京・関西・北海道の地方学連が中執不信任を決議し臨時大会を開くことを要求したことに伴い、大会と同じ権限を持つ拡大中央委員会が開かれたことによる。この第1回拡中委では、武井執行部は学生の要求を取り上げず、分裂をあおり、学生の行動を踏みにじったという不信任案が提出され、第二全学連結成を呼びかけたり会費を意識的に滞納した北海道学連・関西学連への中執からの反駁があったものの、地方学連の支持により可決され、玉井仁以下次回大会までの臨時執行部が選出された 軍事路線に従う新執行部を据えた全学連は「極左冒険主義」路線へと突き進んだ。反戦学同派は軍事路線に断固として反対しており、中国革命方式の「猿真似」は決定的誤りであるとしていた。自己批判して党に戻った活動家たちは、火炎瓶闘争の前線につけられた。軍事路線は大衆運動への犠牲と弾圧を招き、路線に反対する学生たちの離反もあったことから1952年6月26日に二年ぶりに開かれた第5回大会には54大学のみの参加となった(96校代議員197名評議員52名オブザーバ27校新加盟27校とも)。この大会は玉井仁を委員長に選出、武井、安東、吉田嘉清、津島薫、山中明らは正式に除名処分を受け、反戦学同は解散を決議された。機関紙(誌)である『日本学生新聞』『学生評論』は廃刊され、新たに『祖国と学問のために』『学園評論』が発行された。1953年3月の第4回拡大中央執行委員会では極左路線への自己批判要請が提起され、6月の下谷公会堂での第6回大会では選挙権に関する自治庁通達反対闘争、浅間・妙義・内灘基地反対闘争と帰郷運動を採択し、極左的傾向は弱まったが依然質的転換には至らなかった。この大会では一時主流派(所感派)学生による反主流派リンチ事件も発生している。このころ全学連内では武装闘争への厭戦ムードが漂い始めていたという。アジア太平洋地域平和会議(北京)を受けて、諸国民平和会議(ウィーン)に向けて全学連とわだつみ会の共催で日本学生平和会議が催され、吉田内閣への抗議決議などが採択された。1954年から55年にかけては、「平和攻勢」の機運の高まりにも関わらず第7回大会で「ゼミナール運動」「生活と平和のために」という「ピント外れ」のスローガンを掲げ、さらに運動は停滞することとなった。極左路線の総括一つなしに方針が大転換したことに対しては、大会の参加者からも批判が噴出したという。軍事路線と入れ替わりでうたごえ運動が推進されたことにも多くの活動家が疑問を呈したという。1953年から1955年にかけて帰郷運動、授業改善、スポーツ交流、全日本学園復興会議(大島渚議長)などの路線を学生党員は戸惑いをもって迎え、一般学生からは「大衆を愚弄・蔑視するもの」と受け取られた。学園復興会議は中央委員会の決議により11月8日から12日にかけて京都にて開催されたもので、学園復興に関するシンポジウムと討論会がその主題であった。この渦中、京都大学で集会をしていた学生が学園復興会議に出席するために移動し鴨川を渡り河原町通りへ出ようとしたところ、不法デモであるとして警官隊が荒神橋を破壊して学生もろとも河原へ墜落させる事件が発生(荒神橋事件)、学生が警察に抗議したところ200名の武装警官による催涙弾・警棒による襲撃があり、さらに数十名の重軽傷者を出した(11・11事件)。全学連内ではその後もセクト主義は依然として健在であり、総点検運動と称して「革命的警戒心」に基づく「スパイ狩り」が行われた。
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