北海道異体文字
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関連する文字
手宮の「文字」
1866年(慶応2年)に発見された手宮洞窟の岩絵を文字とする説もある。この彫刻は小樽市にある続縄文時代の遺跡であり、1921年(大正10年)には国の史跡に指定されている[注釈 8]。1878年(明治11年)に榎本武揚や開拓使の大書記官山内堤雲、考古学者のジョン・ミルンによる調査が行われて以降、広く知られるようになった。
この手宮の彫刻は古く「ジンダイモジ」[4](ジンダイ文字[5])、「アイヌ文字」[5]、「アイヌ古代文字」[6]、「奇形文字」[7]のように称されていたが、後述の中目の説が広まって以降は主に「古代文字」と呼ばれるようになった。吾郷清彦は「手宮古字」と称している。宮沢賢治の詩「雲とはんのき」(詩集『春と修羅』に掲載)の中には「手宮文字」として登場するほか、鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」や北原ミレイの「石狩挽歌」(小樽市出身のなかにし礼が作詞)、三波春夫の「おたる潮音頭」といったいわゆるご当地ソングにもそれぞれ「古代の文字」、「古代文字」、「手宮の文字」として歌われている。
考古学者の鳥居龍蔵は1913年(大正2年)10月の『歴史地理』第22巻第4号に「北海道手宮の彫刻文字に就て」を投稿している。この中で鳥居は、手宮の彫刻は突厥文字であると主張し、靺鞨の用いたツングース系の言語を記したものである可能性を示唆している。さらに言語学者の中目覚は、1918年(大正7年)2月の『尚古』第71号に「我国に保存せられたる古代土耳其文字」を投稿し、手宮の「古代文字」を解読したと主張している。中目はこの彫刻を突厥文字とする鳥居の説を支持し、靺鞨の言語で「……我は部下をひきゐ、おほうみを渡り……たたかひ……此洞穴にいりたり……」[注釈 9]と解読した。また同月の『小樽新聞』において中目は、『日本書紀』に見える阿倍比羅夫と戦った粛慎とは靺鞨人のことであり、この戦いによって死亡した靺鞨人の族長を埋葬したのが手宮洞窟の遺跡であると主張している。
一方郷土史研究家の朝枝文裕は、1944年(昭和19年)に『小樽古代文字』を著し、手宮の彫刻を古代中国の漢字とする説を唱えた。朝枝はこの彫刻を、約三千年前に古代中国の王朝である周の人々によって記されたものとしている。その内容については、周から遠征のために派遣された船団がこの地を訪れたが、そこで船団の指導者である「帝」が死亡したため葬り、その後重大な変事が発生したため血祭りの儀式を執り行った旨を記したものであると解読している。さらに朝枝は、古代中国の王朝である殷や周から派遣された船が、卜占に用いる鹿の角を求めてしばしば北海道を訪れたと主張している。
なお朝枝(1972)において同系の文字とされたものが、ほかに3点存在する。朝枝はいずれも死者のために行った祭事を古代の漢字で記したものとしている。
朝枝が文字としている彫刻の名称 | 解説 |
富岡古代文字石 | 3行に渡り黒色の12字を記す。1909年(明治42年)6月2日、小樽市稲穂町(のちの富岡町)にて出土。朝枝は、二千数百年前の漢字であるとしている。 また東洋史学者の白鳥庫吉は契丹か女真の墓標とする説を唱えている。 一方で小樽高等商業学校の教授である西田彰三は、和人が篆書体の漢字を記したものであり古代の文字ではないとしている[8]。西田によるとカムイコタンの岩壁にも「古代文字」と称される同様の彫刻があり、これも古代のものではないとしている。 |
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忍路古代文字石 | 1919年(大正8年)頃、忍路にて出土。朝枝は三千数百年前の漢字としている。 東北大学考古学研究室の所蔵品。 |
泊絵文字石 | 1934年(昭和9年)8月14日、古宇郡泊村にて発見される。朝枝は約四千年前の漢字としている。 北海道大学総合博物館の所蔵品。 |
また神代文字の研究者である相馬龍夫は、1978年(昭和53年)に『解読日本古代文字』を著し独自の説を唱えている。相馬は手宮の彫刻について、百済系民族によって北陸地方を追われた勢力に属する人々の記した文字であり、その内容を訳すと以下のようになると主張している。なお宇ノ気、能登、加賀、鹿島、邑知、野野、羽咋、輪島はいずれも現在の石川県にあたる地域の地名である。
敵を討て。洞窟に入ったのは、根拠地とするためである。武力を貯えよ。我等の神は、必ずや敵を撃ち殺してくれるぞ。 — 相馬龍夫、『解読日本古代文字』21頁より
討て!あの宇ノ気、能登地と加賀の鹿島邑知 、加賀の野野と加賀。関所要所をつぶし分断せよ。占領されている 敵加賀 衝き、畜生奴らが占領している羽咋 輪島につながる良き地にたむろする奴等を射抜け、焼き討ちにせよ。海につき出た能登、なんともすばらしい我等が故郷 加賀野の宇ノ気 野野 加賀。 — 相馬龍夫、『解読日本古代文字』22頁より
フゴッペの「文字」
1927年(昭和2年)10月、余市町のフゴッペにおいて岩面彫刻が発見された。小樽高等商業学校の教授である西田彰三はこの彫刻について、「手宮古代文字」に対し「フゴツペ古代文字」という語を用い対馬文字や突厥文字との関連を示唆している[9]。しかしアイヌ人の民俗研究者である違星北斗は、フゴッペの「奇形文字」[注釈 10]には手宮洞窟の彫刻と異なり風化の痕跡が見られないことから、後代の偽作である可能性を示唆している[10]。
相馬龍夫はこの彫刻について、手宮のものと同様に北陸地方を追われた勢力に属する人々が記した文字であるとし、「海を渡り珠洲を
1950年(昭和25年)には同じ余市町においてフゴッペ洞窟の岩絵が発見された。こちらは手宮洞窟のものと同じく続縄文時代の遺跡であることが確認されており、1953年(昭和28年)には国の史跡に指定されている。この彫刻についても、手宮のものにならって「古代文字」と呼ばれることがある。
相馬龍夫はこの彫刻についても、北陸地方を追われた勢力に属する人々が記した文字としている。相馬による訳の一部を以下にあげる。
敵に奪われている豊かな地、宇気、加賀、その敵を討て、討って、討って、討ちまくれ、城門、倉門、打ち破り、次から次と、徹底的に討ち果たせ — 相馬龍夫、『解読日本古代文字』40頁より
加賀、野野。神よ討ちぬい、畜生どもを倒せ。
珠洲シャクの地、鹿能の東海岸地を討て、羽咋、輪島、能登の西海岸とを結ぶ邑知地溝帯を討ち抜け、神様。
ここに誓い合うは、宇ノ気と富来 の者達であります。
われらが王は珠洲におわす — 相馬龍夫、『解読日本古代文字』42-43頁より
一方で高橋良典が会長を務める日本探検協会では、フゴッペ洞窟の北壁にある彫刻について、北海道異体文字で「イイシシライ」「カワサカナハキツ」と読み「イイシシ(食獣)ら居」「川魚は来つ」の意であると主張している[注釈 11]。
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注釈
- ^ 吾郷(1975)における片仮名表記。漢字表記としては「夷奴字」あるいは「夷奴文字」を用いている。また「アイヌ古字」や「蝦夷古字」とも称している。
- ^ 坪井正五郎「北海道諸地方より出でたる古器物上に在る異体文字」では単に「異体文字」と称している。落合直澄『日本古代文字考』では「夷奴字」(傍訓は「アイノモジ」)ないしは「蝦夷字」、または「北海道異体文字」という語を用いており、この記事では後者の名称を採用している。
- ^ なお原田(2007)では「アイヌ文字」に関する文献として『坪井正五郎、「重ねてアイヌ木具貝塚土器修繕法の符合は貝塚土器のアイヌの邊物たるを證する力無き事を述ぶ」 『東京人類学会雑誌』 1890年 5巻 54号 p.368-371, doi:10.1537/ase1887.5.368』 に掲載されるをあげているものの、そこに北海道異体文字に関する記述は確認できない。
- ^ ただし落合はこの出雲の書島石窟に記された文字とされるものについて、出雲に「書島」という名称の島は確認できないため、実は出雲ではなく陸奥の辺りに伝えられたものではないかとしている。
- ^ ただし落合は、この記号を十干とするのは後世の人間による付会であるとしている。
- ^ 落合は「松山百穴古字」と称している。
- ^ a b 吾郷(1975)118頁では「金泥をもってアイノモジを書きつけている」としているが、荘司(1887)では「文字は朱色に類し小豆色」としている。
- ^ なお関場不二彦や金田一京助は明治初期に白野夏雲の部下によって捏造されたものとする説を唱えたが、のちの研究によって否定されている。
- ^ 同月の『小樽新聞』では「……我は部下を率ゐ大海を渡り…闘ひ…此洞穴に入りたり……」という表記になっている。
- ^ 1926年(昭和元年)12月19日の『小樽新聞』において違星が用いている名称。
- ^ 落合(1888)の表にある字を用いて解読している。ただし原田(2007)と同様に落合の表にはない発音を付している。
- ^ 久保寺によると「刻み目をつける」「コツコツ刻む」「啄む」の意。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない読点を補っている。
- ^ 『日本庶民生活史料集成』の翻刻文にはない濁点を補っている。
出典
- ^ a b 原田(2007)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 落合(1888)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 坪井(1887)
- ^ 渡瀬(1886)
- ^ a b 1881年(明治14年)の『開拓使調書』による。
- ^ 中目(1918)
- ^ 『広報よいち』(外部リンク)による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月21日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)11月22日の『小樽新聞』による。
- ^ 1928年(昭和3年)1月10日の『小樽新聞』による。
- ^ 1927年(昭和2年)12月25日の『小樽新聞』による。
- ^ 久保寺逸彦・北海道教育庁生涯学習部文化課編『アイヌ語・日本語辞典稿-久保寺逸彦アイヌ語収録ノート調査報告書』北海道教育委員会、1992年、275頁。
- ^ 服部四郎編『アイヌ語方言辞典』岩波書店、1964年、60頁。
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