ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字
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原シナイ文字 | |
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![]() 原シナイ文字の例。左上から右下へ読み、mt l bʿlt(バアラト (女神) へ)と読まれる可能性がある | |
類型: | アブジャド |
言語: | 北西セム語 |
時期: | 紀元前18-15世紀 |
親の文字体系: |
ヒエログリフ
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子の文字体系: | フェニキア文字、南アラビア文字 |
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。 |
メロエ 前3世紀 |
カナダ先住民 1840年 |
注音 1913年 |
原シナイ文字(げんシナイもじ)は、シナイ半島のサラービート・アル=ハーディム (アラビア語: سرابت الخادم Sarābīṭ l-ḫādim) で発見された、青銅器時代中期 (紀元前2000年-紀元前1500年) の年代と推定される少数の刻文に使われている文字を指す。
最古の「原シナイ文字」刻文は、早くて紀元前19世紀、遅くて紀元前16世紀のものと推定される。「主な議論は早い時期である1850BCごろか、遅い時期である1550BCごろかで争われている。どちらの時期をとるかによって、原シナイ文字と原カナン文字のどちらが古いか、そこからの帰結として音素文字がエジプトとパレスチナのどちらで生まれたかが決定される」[1]。青銅器時代の「原シナイ文字」およびさまざまの「原カナン文字」の刻文資料はわずかな量のものしか存在しない。青銅器時代が崩壊し、レヴァント地方に新しいセム系の王朝が勃興して、はじめて鉄器時代のフェニキア文字の直接の祖先である「原カナン文字」(ビブロス刻文)が現れる[2]。
いわゆる「原シナイ文字」は、1904年から1905年にかけての冬にシナイ半島でフリンダーズ・ピートリー夫妻が発見した。これに加えて、紀元前17世紀から15世紀のものとされるさまざまな短い「原カナン文字」刻文がカナンで発見された。より新しくは、1999年にen:John Darnellとen:Deborah Darnellが中エジプトでいわゆるワディ・エル・ホル文字(ワディエルホルもじ、英語:Wadi el-Hol script)を発見した。紀元前19世紀から紀元前18世紀頃のものと推定される[3][4]。
石刻資料
サラービート刻文
原シナイ文字は、シナイのサラービート・アル=ハーディム (アラビア語: سرابيط الخادم Sarābīṭ l-ḫādim) と呼ばれる山と、その地にあるエジプトのハトホル女神の寺院で発見された落書きと奉納文によって有名である。サラービート山はトルコ石を産し、800年にわたって繰り返し採掘が行われた。こういった採掘坑の労働者や役人はナイル川デルタの出身で、その中にはデルタの東部に住むことを許された大勢のカナン人(後期青銅器時代のカナン語の祖にあたる北西セム語を話していたと推定されている)が含まれていた[4]。
トルコ石鉱山の中および近辺、およびハトホル神殿に通じる道で発見された岩石を引っかいて作られた刻文はヒエラティックまたはヒエログリフで書かれているものが多いが、そのうち40ほどがいわゆる原シナイ文字で書かれている[5]。
刻文の時代は通常紀元前17世紀から紀元前16世紀の間と考えられている[6]。
4つの刻文は寺院の中の2つの人物像と小さな石でできたスフィンクスの両側に書かれている。乱雑に書かれており、これを書いた労働者が文盲であった可能性を示唆する。
1916年にガーディナーはこの記号を音素文字であると仮定して、刻文のなかの文字列を לבעלת l bʿlt (女神へ)と読んだ(baʿalat〔バアラト。女神〕はハトホルの称号で、セム系の神の称号であるbaʿal〔バアル。主、神〕の女性形)である)。
石のスフィンクスに書かれたものは二言語の碑文であり、エジプト語の方は「トルコ石の主であるハトホル神の最愛の者」と読める。ガーディナーによると、原シナイ語の方は mʿhbʿl と読み、bʿlt の最後の t が欠けたものと見て、「女神の最愛の者」と読まれる。
原カナン文字刻文
カナン地方自身からは、紀元前17世紀以降の2・3の刻文しか見つかっていない。いずれも非常に短く、大部分は数文字からなる。おそらくカナンの隊商か、あるいはエジプトの兵士によって書かれたかもしれない[4]。これらの文字を原カナン文字と呼ぶこともあるが[7]、「原カナン文字」という語は初期のフェニキア・ヘブライ語碑文についても用いられる[8]。
ワディ・エル・ホル刻文
ワディ・エル・ホル (アラビア語: وادي الهول, wādī al-haul) の碑文はやはり石に掻かれたもので、高地砂漠を通じてテーベとアビドスを結ぶ古代の軍用・商用路ぞいの、ナイル河のキナー河曲にあるワジ (涸れ谷) で見つかった (北緯25度57分 東経32度25分 / 北緯25.950度 東経32.417度付近)。2つの碑文が知られている。この文字体系の字形は原シナイ文字に極めて似通っているが、より古く、また文字が使用されていたエジプトの中心部のはるかに南である。字形やその向きは、紀元前2000年、第1中間期の頃のヒエラティックの落書きにたいへんよく一致する。ハーバード大学のen:Frank M. Crossは、この碑文を「明らかに最古の音素文字」であり、後のセム系文字とも十分に似通っている、と考え、「これは音素文字の単源的な発展のうちに位置付けられる」と結論づけている。
en:Brian Collessは、ワディ・エル・ホル文字はその起源となったヒエラティックの表語的性質をいくらか保持した「原始音素文字」であったと考える。たとえば、(オルブライトに倣って) ある字形 נ は現代ラテン文字の N の祖であり、エジプト語の「蛇」の字形を借用したと考える (実際には、ヒエログリフの「蛇」の文字から借用したいくつかの変種があったと考える)。すると、字の呼び名はカナン語の「蛇」、すなわち naħaš となる。これは頭音法によって音素 /n/ に用いることができたばかりか、naħaš (蛇) という語の表語文字にも用いることができ、さらには、複数子音の判じ絵にも用いることができたという。たとえば、 ת T taw という字を付けて נת NT のようにし、nħšt (銅) を表す。
一部の子音は、複数の字形を持っていたようである。これはひとつには、複数の字形が同じ呼び名の字を表し得た (「蛇」、「毒蛇」その他の蛇の字形が N「蛇」になるというように) ためで、またひとつには、カナン語で同音異義語やそれに近いもの同士であった (「魚」と「背骨/支える」がともにカナン語では samk で S になるというように) ためである。現存するレバンテ順の文字資料以前に失われてしまった字もあることだろう。
碑文1 (写真、模写) は16文字、碑文2 (写真、模写) は12文字から成る。2つの碑文の読みを、en:Stefan Wimmerとen:Samaher Wimmerによる翻字で示す。角括弧内にCollessによる別の翻字を示し、見解の相違があるものは太字とする。
- r ħ m ʿ [ʔ] h2 m p w h1 w m w q b r ← [右から左へ読む]
- [r x m p [ʔ] h2 θ g n h1 n m n w b r]
- l [ʔ] š p t w ʿ h2 r t š m ← [右上から左下へ読む]
- [l [ʔ] š g t n ʿ h2 r t š m]
H1 は「祝賀」[ガーディナー分類で A28] の形に作り、一方 h2 は「小児」 [同 A17] もしくは「舞踊」 [同 A32] の形に作る。後者であるとすれば、h1 と h2 は字形上の異体である。
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