守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 15:39 UTC 版)
鎌倉時代
平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。
鎌倉期の守護の初見は、1180年(治承4年)10月の富士川の戦いの直後に、源頼朝が甲斐源氏の武田信義を駿河守護、安田義定を遠江守護に任じたとする『吾妻鏡』10月21日条である。この段階では頼朝の勢力は足柄以西には及んでいないため編者による曲筆と思われるが、頼朝の勢力圏である関東南部には早期に設置されていたと見られる[注釈 1]。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護の設置は西国へと拡大していった。当時の守護は
同年11月、北条時政の奏請により、源義経・源行家の追討を目的として五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に
その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三箇条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。
鎌倉中期以降は、北条氏一門による守護職の独占化が進んだ。これは、北条時頼の頃から北条本家(得宗)による政治の専制化、すなわち得宗専制が確立していったことに伴うもので、北条一門の守護国は、鎌倉初期の1200年頃に2国(他氏36国、守護不設置4国[注釈 3])、1250年頃に17国(他氏24国、不設置5国[注釈 4])、1285年頃に33国(他氏18国、不設置5国[注釈 5])、鎌倉最末期の1333年には38国(他氏15国、不設置5国[注釈 6])と鎌倉中期を境に一気に増加していた。こうした事態は、他の御家人らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったと考えられている。
- ^ 1209年(承元3年)に守護の職務緩怠が問題となり、幕府は調査のため鎌倉近国の守護に補任下文の提出を命じた。この際、千葉成胤は祖父の常胤、三浦義村は父の義澄が与えられた頼朝の下文を提出しており、千葉常胤と三浦義澄が頼朝により下総守護・相模守護に任じられたことがうかがえる(『吾妻鏡』承元3年11月20日、12月15日条)。『源平盛衰記』には富士川の戦いの後に、広常と常胤が上総・下総を頼朝から賜ったとする記述があり、上総広常も上総守護に任じられていたと推測される。
- ^ 保立道久は『吾妻鏡』の文治2年6月21日条は畿内・西国の守護・惣追捕使は完全に停止された事を意味し、建久の新制移行もその状態が継続した結果、頼朝が最終的に守護を設置したのは「東国二十八ヶ国」に限定されたとする。その守護が設置された「東国二十八ヶ国」は『吾妻鏡』建仁3年8月27日条において、源頼家が息子の一幡に譲ろうとした国々と合致するとするとみる(保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房、2015年)第6章 鎌倉前期国家における国土分割 (原論文:2008年))。
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
- ^ 山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)
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