ルネサンス期のイタリア絵画 ルネサンス期のイタリア絵画の概要

ルネサンス期のイタリア絵画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/18 03:53 UTC 版)

イタリアでのルネサンス絵画の黎明期はジョットに始まるとされ、その後、タッデオ・ガッディオルカーニャアルティキエーロら、ジョットの弟子がその作風を受け継いでいった。初期イタリアルネサンスで重要な画家として、マサッチオフラ・アンジェリコパオロ・ウッチェロピエロ・デッラ・フランチェスカヴェロッキオらの名前があげられる。盛期ルネサンスではレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ、マニエリスム期ではアンドレア・デル・サルトポントルモティントレットらがとくに重要な画家である。

ルネサンス期にイタリアで描かれた絵画作品は、芸術分野以外でのルネサンス運動、例えば哲学、文学建築、神学、科学など様々な要素を反映している。さらには当時の社会情勢も、絵画作品へ大きな影響を与えた。また、ルネサンス期にイタリアで活動していた画家たちは、特定の宮廷、あるいは都市と強く結びつくこともあったが、それでもなお多くの画家はイタリア中を訪れ、ときには外交特使の役目を担って、芸術と哲学の伝播に重要な役割を果たした[1]

メディチ家による銀行の創設と、それに続く貿易の隆盛は、メディチ家が根拠としていたフィレンツェに莫大な富をもたらした。それまで芸術家の重要なパトロンは教会や君主だったが、メディチ家当主コジモ・デ・メディチ(1389年 - 1464年)が、それらとは無関係なルネサンス期の典型ともいえる新たな芸術パトロン像を確立した。

ルネサンス期を通じてフィレンツェは、ジョットマサッチオブルネレスキピエロ・デッラ・フランチェスカレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロら、錚々たる芸術家を輩出している。これらの芸術家は新しい絵画様式を確立し、一流の技量を持つとはいえないその他の芸術家たちにも大きな影響を与え、フィレンツェの絵画界全体の技量と品質向上に大きな役割を果たした[2]ヴェネツィアでもフィレンツェと同様に芸術分野での大きな向上が見られ、ベリーニ一族[注釈 1]マンテーニャジョルジョーネティツィアーノティントレットらが、ルネサンス期のヴェネツィアを代表する画家たちである[2][3][4]

画題

『サン・ロマーノの戦い』(1438年 - 1440年頃)、パオロ・ウッチェロ
ナショナル・ギャラリーロンドン

ルネサンス期に描かれた絵画作品は、ローマ・カトリック教会からの依頼で制作されたものが多い。大規模な作品も多く、「キリストの生涯」や「聖母マリアの生涯」あるいは聖人、とくにアッシジの聖フランチェスコといったテーマが、フレスコ画で繰り返し描かれた。他にもキリスト教的救済と、現世において救済の役割を担う教会をテーマにした寓意画も多数描かれている。教会が注文した作品には板に描かれた祭壇画もあり、これは後にキャンバス支持体として油彩で制作されるようになった。このような大規模な祭壇画とは別に、小さな宗教画も非常に多く描かれている。これらは教会ならびに個人による注文で描かれたもので、画題としては聖母子が多い。

『善政の寓意』(1338年 - 1340年)、アンブロージョ・ロレンツェッティ
プブリコ宮殿(現在のシエーナ市庁舎)(シエーナ

ルネサンス全期を通じて、教会、個人以外に都市国家からの絵画制作依頼も重要で、公的な建造物の内装はフレスコ画などの美術品で装飾された。例えばシエーナ共和国の庁舎として建てられたプブリコ宮殿(現在のシエーナ市庁舎 (en:Palazzo Pubblico))には、アンブロージョ・ロレンツェッティによる世俗的な題材である『善政の寓意』の一連のフレスコ画が、シモーネ・マルティーニによる宗教的な題材である『荘厳の聖母(マエスタ)』のフレスコ画がある。

『ジョン・ホークウッド騎馬像』(1436年)、ウッチェロ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂フィレンツェ

実在する特定の個人を描いた肖像画は14世紀、15世紀初頭にはあまり描かれておらず、都市国家に貢献した重要人物を記念する肖像画が描かれた程度である。このような記念肖像画として、シモーネ・マルティーニの『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像』(シエナ市庁舎、1327年)、パオロ・ウッチェロの『ジョン・ホークウッド騎馬像』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、1436年)、アンドレア・デル・カスターニョの『ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、1456年)などがあげられる。15世紀半ば以降になると肖像画は一般的なジャンルとなり、当初は横顔、のちに斜め前を向いた胸から上の肖像画が多く描かれた。有力なパトロンが祭壇画やフレスコ画に描かれた場面の登場人物として描かれることもあり、ドメニコ・ギルランダイオフィレンツェのサンタ・トリニタ教会サセッティ礼拝堂 (en:Sassetti Chapel) のフレスコ画に描いた、フランチェスコ・サセッティ (en:Francesco Sassetti) とメディチ一族[注釈 2]が有名な人物像となっている。盛期ルネサンスのころには肖像画はますます多く描かれるようになっていき、ラファエロ、ティツィアーノら重要な画家が肖像画を制作し、マニエリスム期でもブロンズィーノといった画家が肖像画の名作を残している。

ルネサンス人文主義の成熟とともに、画家たちが絵画作品に描く題材もギリシア・ローマ神話などの古典的なものになっていった。富裕なパトロンの私邸を飾るために描かれた作品にこの傾向は顕著で、メディチ家の一員ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ (en:Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici) の別荘カステッロ邸装飾絵画として描かれたボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』などが有名な作品である。このような古典的題材は、都市国家からの依頼作品にも特定の寓意を表すモチーフとして採用されるようになった。ルネサンス人文主義は宗教画にも影響を及ぼしており、ミケランジェロが描いたバチカン宮殿システィーナ礼拝堂天井画がその好例となっている[5]

当時の風俗、暮らしぶりを描いた絵画作品もあり、そのなかには何らかの寓意を意味する作品も、純粋に装飾用に描かれた作品も存在する。マントヴァの領主ゴンザーガ公爵家の邸宅であるドゥカーレ宮殿の「夫婦の間」(en:Camera degli Sposi) にマンテーニャが描いたフレスコ画は、当時のゴンザーガ家の生活を記録した貴重な資料ともなっている。

ウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』のように、重要な出来事を記念して制作された絵画作品も多い。また、当時のイベントや実在の人物を、歴史的な出来事や歴史上の人物に仮託して描いた作品もあり、歴史上の人物の外観で描かれた肖像画が存在する。ダンテの著作、ウォラギネの『黄金伝説』、ボッカッチョの『デカメロン』といった文学作品が、このような構成で描かれた作品の主たる取材源となっている。その他にも、ルネサンス期にはさまざまなものが画題となっていった。自然の観察、解剖学の研究、光の描写、遠近法の発達などにより、画家たちの力量は向上し、優れた作品が生み出されていった[2][3][6]

ルネサンス黎明期

13世紀のトスカーナ絵画

『聖母子と四天使及び七預言者、聖ドミニクス、聖アグネス』 (1280年頃)、ドゥッチョ
ナショナル・ギャラリーロンドン

フィレンツェ、シエーナを含む13世紀のトスカーナ地方では、フィレンツェのチマブーエとシエーナのドゥッチョの二人が特に有名で画家である。両者ともにビザンティン美術の影響を強く残した画家である。描いたジャンルは聖母子を描いた大規模な祭壇画などの宗教画がほとんどだった。同時代には、グイード・ダ・シエナ (en:Guido of Siena)、コッポ・ディ・マルコヴァルド (en:Coppo di Marcovaldo)、そして高度に様式化された作風で描いた伝統的古代ギリシア様式のイコンが残っている、通称「聖ベルナルディーノの巨匠」と呼ばれる画家などがいる[7]

テンペラで描かれたそれまでの画家たちの絵画はルネサンス絵画に比べると生硬なものだった。描く主題によって様式は決まっており、たとえば聖母子を題材とした作品の場合であれば描く手の位置まで指定され、作品を見るものに対して鑑賞法を強いるような構成で描かれていた。聖母マリアの頭部や肩の角度、髪を包むヴェール、容貌なども画一化され、同様の構成、構図で描かれた作品が無数に制作されていた。このような当時のトスカーナ絵画界において、チマブーエとドゥッチョ、そしてローマピエトロ・カヴァリーニは、ゴシック、ビザンティンの影響が残るとはいえ、次世代ルネサンスの絵画作品の主流となる自然主義の萌芽となった重要な画家といえる[2]

ジョット

ジョット(1267年頃 - 1337年)はジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述によれば、フィレンツェ北部出身の羊飼いの少年で、後にチマブーエに弟子入りし、当時を代表する傑出した画家と見なされている人物である[8][注釈 3]。おそらくピエトロ・カヴァリーニらローマ画壇の影響を受けていたジョットは、それまでの絵画表現の伝統的因習にとらわれることなく、対象を観察し写実的な作品を描いた。当時主流だったビザンティン絵画とは異なり、ジョットが描く人物像は三次元的に描写されている。しっかりと大地に足をつけた解剖学的に正確な人物像であり、まとう衣服は質感豊かに表現されていた。さらにジョットが描く人物には当時のほかの画家による作品とは違って感情の描写が見られ、人物の表情には、喜び、怒り、失望、恥じらい、悪意、愛などが表現されている。

ジョットがパドヴァスクロヴェーニ礼拝堂の内部装飾として描いた「キリストの生涯」「聖母マリアの生涯」の一連のフレスコ画は、絵画に新たな物語性をもたらした。ジョットの祭壇画『荘厳の聖母』(en:Ognissanti Madonna) 、チマブーエの『サンタ・トリニタの聖母子』、ドゥッチョの『ルチェライの聖母』は、フィレンツェウフィツィ美術館の同じ展示室に収められており、ルネサンス黎明期を代表する三人の画家の作風の違いを一度に目にすることができる[9]。ジョットの作品の大きな特徴として、自然な遠近法の使用があげられる。現在ではジョットこそがイタリアルネサンス絵画への先鞭をつけた芸術家であるとみなされている[10]

ジョットの影響を受けた画家たち

『羊飼いへの告知』(部分)(1328年 - 1330年)、タッデオ・ガッディ
サンタ・クローチェ聖堂(フィレンツェ)

ジョットと同時代の画家たちには、ジョットのもとで修行をした、あるいはジョットの作品に影響を受けて自然を観察することによって、ジョットと同じ写実主義の作品を描くようになった芸術家が数多く存在する。しかしながら、ジョットの弟子の中には師のジョットとほとんど同じ作品を描くようになった画家もいたが、ジョットほどの評価と成功を獲得した画家は誰もいない。ジョットの弟子としては、フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂バロンチェッリ礼拝堂に『羊飼いへの告知』などのフレスコ画群を描いたタッデオ・ガッディが有名な画家である[2]

当時の自然主義絵画作品の好例といえるのが、サン・フランチェスコ大聖堂上堂のフレスコ画群である。これらのフレスコ画の中にはジョット自身が手がけた作品があるといわれるが、ピエトロ・カヴァリーニらローマの画家たちの作品ではないかとする説もある[10]。サン・フランチェスコ大聖堂下堂には、上堂のフレスコ画の完成後にチマブーエが描いた『聖母と聖フランチェスコ』があり、それまでのチマブーエの板絵などと比較すると、明らかに自然主義が採用された作風の絵画になっている。

死と贖罪

『死の勝利』(1350年頃)、オルカーニャ
サンタ・クローチェ聖堂(フィレンツェ)

中世の教会で好まれた装飾絵画のモチーフは「最後の審判」だった。1348年にヨーロッパを襲ったペストの大流行が多くの死者を出し、残された人々は宗教的な懺悔や赦免に救いを求めた。逃れることのできない死、悔悟に対する報い、罪への罰といったモチーフがフレスコ画に繰り返し描かれ、超現実的な苦痛に満ちた恐ろしい地獄の光景が絵画作品中に強調された。ジョットの弟子と考えられているオルカーニャの1350年ごろの作品『死の勝利』には、このようなモチーフがすべて描かれており、ピサドゥオモ広場にある記念墓所カンポサント (en:Camposanto Monumentale) にも、『死の勝利』と呼ばれる同様の作品が存在する。ピサの『死の勝利』の作者は伝わっておらず、フランチェスコ・トライーニ (en:Francesco Traini) かブオナミーコ・ブファルマッコではないかとされている。これらの作品が描かれた時期は定かではないが、1348年以降だと考えられている[2]

『パラディーソ』(1375年 - 1378年)、ジュスト・デ・メナブオイ
パドヴァ大聖堂洗礼堂(パドヴァ)

14世紀後半のパドヴァでは、アルティキエーロとジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi) の二人の重要なフレスコ画家が活動していた。ジュストの代表作としてパドヴァ大聖堂洗礼堂の装飾壁画があり、これは洗礼堂の内陣に「人類創造」、「堕落」、「救済」、そして絵画に取り上げられるのは珍しいモチーフである「黙示録」などが描かれた一連のフレスコ画である。非常に大規模な作品で、質の高さ、保存状態の良好さにも定評があるが、描かれている人物の感情表現は、アルティキエーロがパドヴァのサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂に描いた『キリスト磔刑』と比べると保守的な描写といえる。ジュストの作品の人物は、それまでの様式化されたポーズで描かれているのに対し、アルティキエーロの『キリスト磔刑』は処刑されたキリスト遺骸を取り囲む人々の激しい感情が描き出されている[11]

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の通称「スペイン人礼拝堂」[注釈 4]は、アンドレア・ディ・ボナイウート (it:Andrea di Bonaiuto) に、自分たちの教会がドミニコ修道会派のなかで贖罪の役割を担っていることを広める作品の制作を依頼した。このときに描かれたフレスコ画『Chiesa militante e trionfante』(1365年 - 1367年)には建築中のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も描かれており、フレスコ画制作当時には存在しておらず、15世紀になってから完成したドームが描かれていることは注目に値する[2]

国際ゴシック

『キリストの変容』(1437年 - 1446年頃)
フラ・アンジェリコ
サン・マルコ美術館(修道院)(フィレンツェ)

14世紀後半のトスカーナ地方の絵画作品は国際ゴシックが主流となっていた。ピエトロアンブロージョのロレンツェッティ兄弟の作品が好例で、様式化された美しく上品な人物像と衣服のひだの表現などに後期ゴシック様式の優雅さを見ることができる。この国際ゴシックの発展に寄与したのはシモーネ・マルティーニジェンティーレ・ダ・ファブリアーノで、優美で深みのある詳細描写と、ジョットの解剖学的に写実的な人物表現とは正反対の、理想化された人物描写に特徴がある[2]

15世紀前半に、国際ゴシック絵画とルネサンス絵画の橋渡し役とも言えるフラ・アンジェリコが登場する。フラ・アンジェリコが描いたテンペラの祭壇画にはゴシック様式で多用された金箔や鮮やかな色使いがある。その一方で、自身が属していたサン・マルコ修道院のフレスコ壁画からは、フラ・アンジェリコがジョットの写実主義に強い影響を受けていることが見てとれる。これらのフレスコ宗教画は、フラ・アンジェリコが修道院に居住する修道士のために小部屋や廊下の装飾として描いたものであり、そのモチーフとしてキリストの生涯、とくに「キリスト磔刑」が多く選ばれている。どの作品も少ない色使いで彩色されたシンプルな絵画で、フラ・アンジェリコが写実表現を用いて精神的内面の描写を達成しようとする強い意思を見ることができる[2][12]


注釈

  1. ^ ヤーコポ・ベリーニとその息子ジェンティーレジョヴァンニら。
  2. ^ サセッティはメディチ家の銀行の重職にあり、コジモ・デ・メディチの側近だった人物である。
  3. ^ 『画家・彫刻家・建築家列伝』にはジョットが弟子入りした経緯をはじめ、ジョットとチマブーエとのエピソードが多く書かれているが、そもそもジョットはチマブーエの弟子ではないとする説もある。(Hayden B.J. Maginnis, "In Search of an Artist," in Anne Derbes and Mark Sandona, The Cambridge Companion to Giotto, Cambridge, 2004, pp.12 - 13)
  4. ^ もともとはニコ・グイダロッティが自身の墓所として建てた礼拝堂だが、後にトスカーナ大公コジモ1世が、スペインのトレド出身の妃エレオノーラ・ディ・トレドにこの礼拝堂を与えたことにちなんで「スペイン人礼拝堂」と呼ばれるようになった。
  5. ^ ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』では、マサッチオがマソリーノの画家であった可能性が指摘されている(第2版 p.295)。しかしながら、現代の美術史家たちはこの二人の作風の相違から、この説に懐疑的な研究者が多い(Luciano Berti, "Masaccio 1422," Commentari 12 (1961) pp.84 - 107)。
  6. ^ ダヴィデ・ギルランダイオの兄ドメニコ・ギルランダイオ、弟のベネデッド・ギルランダイオも著名な画家である。
  7. ^ マンテーニャは1460年にマントヴァ侯ルドヴィーコ3世の宮廷画家に迎えられている。
  8. ^ 「スキファノイア」は「(俗世の)面倒ごとからの逃避」を意味し、実際にスキファノイア宮殿には厨房のような存在してしかるべき設備がなかった。このため食事はすべて外部から運び込まれていた。
  9. ^ 聖ヒエロニムスには、シリアでライオンの脚に刺さった棘を抜いたという伝承があり、生涯そのライオンがヒエロニムスのもとを離れなかったとされる。このためヒエロニムスをモチーフとした絵画には、ライオンがその象徴、寓意として描かれることが多い。
  10. ^ メディチ銀行の重職フランチェスコ・サセッティ、ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ夫人ルクレツィア・トルナブオーニなど。
  11. ^ 左翼最前列にひざまずいて祈る人物が制作依頼者のポルティナーリ。
  12. ^ 画面左上から右へと順番に、隠者に身を変えた悪魔が石をパンに変えるようにそそのかす場面、悪魔がエルサレム神殿の屋根から飛び降りるようそそのかす場面、最後に悪魔を崖下へと退ける場面が描かれている。
  13. ^ ユリウス2世(在位1503年 - 1513年)とレオ10世(在位1513年 - 1521年)の肖像画。レオ10世の肖像画には後にローマ教皇クレメンス7世となる枢機卿ジュリオ・ディ・ジュリアーノ・デメディチも描かれている。
  14. ^ プロトゲネスのモデルは画家ソドマ(1477年 - 1549年)とする説もある。しかしながら当時のソドマは30歳代であり、描かれている白髪のプロトゲネスははるかに年齢が上に見える。当時ソドマよりも著名だったペルジーノは60歳代で、ペルジーノの自画像と『アテナイの学堂』のプロトゲネスには共通点が多い。また、ティモテオ・ヴィティ(1469年 - 1523年)という説もある。
  15. ^ ジョルジョーネはジョヴァンニ・ベリーニの弟子といわれ、ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』ではティツィアーノはジョルジョーネの弟子だったとされている。しかしながら17世紀のイタリア人バロック画家、伝記作家カルロ・リドルフィは、ティツィアーノもベリーニに師事していたとしている。
  16. ^ アゴスティーノ・カラッチの弟アンニーバレ・カラッチ、従兄弟ルドヴィコ・カラッチ、息子アントニオ・カラッチら。

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i j Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, (1970)
  3. ^ a b Michael Baxandall, Painting and Experience in Fifteenth Century Italy, (1974)
  4. ^ Margaret Aston, The Fifteenth Century, the Prospect of Europe, (1979)
  5. ^ O'Malley, John (1986). The Theology behind Michelangelo's Ceiling in The Sistine Chapel, ed. Massimo Giacometti p.112
  6. ^ Keith Christiansen, Italian Painting, (1992)
  7. ^ John White, Duccio, (1979)
  8. ^ a b c d e Giorgio Vasari, Lives of the Artists, (1568)
  9. ^ All three are reproduced and compared at en:Thematic development of Italian Renaissance painting
  10. ^ a b Sarel Eimerl, The World of Giotto, (1967)
  11. ^ Mgr. Giovanni Foffani, Frescoes by Giusto de' Menabuoi, (1988)
  12. ^ Helen Gardner, Art through the Ages, (1970)
  13. ^ Baptistry of Florence
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  15. ^ A. Mark Smith (2001), “The Latin Source of the Fourteenth-Century Italian Translation of Alhacen's De aspectibus (Vat. Lat. 4595)”, Arabic Sciences and Philosophy: A Historical Journal (Cambridge University Press) 11: 27 - 43 [28] 
  16. ^ a b Ornella Casazza, Masaccio and the Brancacci Chapel, (1990)
  17. ^ Joan Kelly Leon Battista Alberti. Universal Man of the Renaissance. University of Chicago Press, 1969;
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  29. ^ See, for example Honour, Hugh; John Fleming (1982). A World History of Art. London: Macmillan. p. 357.
  30. ^ David Thompson, Raphael, the Life and Legacy, (1983)
  31. ^ Jean-Pierre Cuzin, Raphael, his Life and Works, (1985)
  32. ^ Olivari, Mariolina (1990). Giovanni Bellini 
  33. ^ Cecil Gould, Titian, (1969)





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