とうきょう‐ゆうしゅん〔トウキヤウイウシユン〕【東京優×駿】
東京優駿
東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:27 UTC 版)
圧倒的1番人気で望んだトウショウボーイは不利も無く最後の直線に入るものの、加賀武見鞍上のクライムカイザーの奇襲に屈し2着。このレース前に弱点をしゃべる失態を犯したのと、次走の札幌記念の敗戦が、デビューからコンビを組んできた池上昌弘降板の原因となる。
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東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:11 UTC 版)
東京優駿(日本ダービー)が行われる東京競馬場のコースに慣らすために、5月6日のトライアル競走であるNHK杯に出走。メジロエスパーダに次ぐ2番人気となり、最後の直線入り口で先頭に立ったが、テルテンリュウやサエキヒーローに交わされた3着に敗れた。そして5月27日の東京優駿(日本ダービー)に出走した。父ハイセイコーがタケホープに敗れた舞台に挑む息子に、勝利を望むファン心理も手伝い、前走、前々走で敗れたはずのビンゴガルーやテルテンリュウを上回る1番人気の支持を集めた。 スタートから有利とされる「ダービー・ポジション」の10番手につけ、周辺にテルテンリュウとビンゴガルーが位置した。第3コーナーから動き出し、最終コーナーで3番手まで押し上げ、馬場の最も内側を走った。残り300メートルで外から追い上げるテルテンリュウがぶつかりながら競り合ってきたが、残り100メートルでテルテンリュウを競り落とした。テルテンリュウの追い上げの際に不利を受けて一時停滞したリンドプルバンが盛り返して、カツラノハイセイコと並んだところが決勝線通過であった。 写真判定には時間がかかったが、ハナ差でカツラノハイセイコの先着が認められた。着順掲示板にカツラノハイセイコの「7」が表示されて、勝利が確定すると松本は右手を上げ、約12万人の歓声と拍手を呼んだ。松本は、騎手デビュー25年目でクラシック初勝利となった。走破タイム2分27秒3は、1974年にコーネルランサーが記録したダービーレコードを0秒1更新した。父ハイセイコーは、内国産馬であり、父内国産馬が東京優駿を制したのは1959年のコマツヒカリ(父:トサミドリ)以来20年振りのことであった。 その後、肺炎や馬房で暴れたことによる鼻骨骨折などで満足に調教できなかった。秋の始動戦は、京都新聞杯だったものの10着に敗れて、菊花賞の出走を断念した。
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東京優駿(日本ダービー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:57 UTC 版)
「サクラチヨノオー」の記事における「東京優駿(日本ダービー)」の解説
5月29日の東京優駿(日本ダービー)に参戦。サクラチヨノオーが皐月賞の不振だったこともあり、力の抜けた馬がいないと判断したマスコミは「横一線」「戦国ダービー」と煽り立てていた。当日の東京競馬場には史上第3位の入場人員15万9158人が集まり、投じられた260億9266万6100円は、ダービー史上最高額および中央競馬史上最高額の売上であった。 レース数日前、東京都渋谷区のNHKホールにて行われた「ダービーフェスティバル’88」では、スポーツ新聞6紙合同の予想が披露された。出席した記者全員がサクラチヨノオーを見切り、予想印は無印であった。皐月賞を回避し、トライアル競走のNHK杯4着から参戦したサッカーボーイが1番人気に推された。しかし単勝オッズ5.8倍、支持率は12.75パーセントに留まり、人気は割れていた。さらに、当日の関東および関西の競馬新聞の予想印は、サッカーボーイを本命(◎)に据えたものはおらず、専門家の間でも評価が分かれていた。以下6.4倍の2番人気には皐月賞を制したヤエノムテキ。サクラチヨノオーは9.4倍の3番人気となり、同じ9.4倍の4番人気にはNHK杯3着のコクサイトリプルが続いた。 小島は、ダービーフェスティバルやマスコミの見解を知り、サクラチヨノオーに対する評価に不満を抱いていた。勝利のためにサッカーボーイよりも、メジロアルダンとコクサイトリプルというデビューから4戦目の2頭を特に警戒していた。前週に行われた優駿牝馬(オークス)ではスイートローザンヌで参戦し、理想の位置で勝利を確信した途端に骨折を発症し、競走中止および予後不良となったことから自身の運の無さを感じながら東京優駿に参戦した。 2枠5番から発走した。大外枠のアドバンスモアが果敢に逃げ、その7,8馬身離れた2番手で第1コーナーを通過した。アドバンスモアが第3コーナー付近で失速して後退し、代わってサクラチヨノオーなど数頭の先行勢が並んでいた。最終コーナーにて、馬場の外側からサクラチヨノオーが進出し、先頭となった。坂に差し掛かると、内からメジロアルダン外からコクサイトリプル、一番外からヤエノムテキが追い上げていた。坂を登りきり、残り200メートルを通過するとメジロアルダンにかわされて半馬身のリードを許していた。しかし小島は慌てず、右後方のコクサイトリプルを確認してから追い込みを始めた。小島に応えてサクラチヨノオーは再び加速してメジロアルダンに迫り、ゴール板直前でクビ差だけ差し返して先頭で入線。2分26秒3で走破し、1982年のバンブーアトラスのレースレコードを0秒2更新するレコードタイムで優勝した。 持込馬のために日本ダービー出走が叶わなかった父・マルゼンスキーの仔として、直前の故障のために日本ダービー出走が叶わなかった兄・サクラトウコウの弟として日本ダービー制覇を果たした。全は日本ダービー直前の5月12日に、前年の二冠馬サクラスターオーを亡くしたことから「スターオーの霊があと押ししてくれたかな」と発言。境は厩舎開業22年目にしてクラシック競走および日本ダービー制覇を果たし、境の父が亡くなる時でも見せなかった涙を人前で初めて見せた。小島は、1978年のサクラショウリ以来2勝目の日本ダービー制覇を達成。小島の母は、北海道小清水町の実家で前年12月に亡くした夫(太の父)の遺影を持って観戦し、涙を流していた。表彰式では、小島にトヨタ自動車からスープラが、麻倉未稀からキスがプレゼントされ、その日の夜には東京都日野市の全の自宅で祝勝会が行われた。大川はこう回顧する。 共同通信杯(4歳ステークス)ではミュゲロワイヤルを追って一杯となり、皐月賞ではヤエノムテキとディクターランドに交わされた〔ママ〕(サクラ)チヨノオーとは、同一の馬ではないと思うほど、競って強いメジロアルダンを差し返してしまった姿には驚いた。 — 大川慶次郎
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東京優駿
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「ワグネリアン (競走馬)」の記事における「東京優駿」の解説
5月27日、クラシックの最高峰、第2弾の東京優駿(日本ダービー)(GI)に参戦する。皐月賞で初めて連対を外したワグネリアンは、不利とされる外、8枠17番からの発走が嫌われて(詳細は、#8枠17番を参照。)支持を集められず、自己最低となる単勝オッズ12.5倍の5番人気だった。最も人気を集めたのは、皐月賞を断念したダノンプレミアムであり、ダノンプレミアムは絶好の最内枠を引き当てていた。それに続くのは、稍重馬場やスローペースなど特殊な条件で決した皐月賞上位組ではなく、別路線組だった。2番人気はデビュー3連勝で毎日杯を制したブラストワンピース、3番人気は皐月賞5着で初敗北を喫したキタノコマンドール。上位人気3頭のオッズは、2倍、4倍、8倍で一桁台であり、それぞれ1枠1番、4枠8番、3枠5番だった。一方、皐月賞優勝馬のエポカドーロは、10.5倍の4番人気、6枠12番からの発走だった。翌年5月1日に改元が予告されていたことから「平成最後のダービー」と位置付けられていたが、皐月賞出走していない馬が1番人気、2番人気を占めたのは「平成最初のダービー」の1989年1番人気ロングシンホニー、2番人気マイネルブレーブ(優勝馬:ウィナーズサークル(3番人気)以来29年ぶりだった。 外枠から五分のスタートを切ったワグネリアンは、これまでの中団待機ではなく先行策に出た。ハナを奪って逃げるエポカドーロ、8枠からハナを奪えず2番手に甘んじたジェネラーレウーノ、逃げ馬の背後につけるダノンプレミアムに次ぐ4番手、傍らにコズミックフォース、背後にブラストワンピースを置く好位の外側だった。テンションに不安のあるワグネリアンにとって好位追走は、折り合いを欠いて惨敗する危険性があるリスクのある戦法であり、その通り、2コーナーまでは行きたがる素振りを見せていた。しかし、2コーナーにて傍らのコズミックフォースが前進したため、その背後を得ることができた。前に馬を置くとたちまち落ち着きを取り戻し、好位かつ末脚が期待できるスムーズな追走となる。傍らは代わってブラストワンピースだった。先頭エポカドーロの前半の1000メートルは60.8秒であり、この日にしてはスローペースだった。 ワグネリアンは、最終コーナーにてコズミックフォースの背後を離脱し、その外に持ち出し、コズミックフォースとともにエポカドーロを目指した。その際、傍らで同じようにコズミックフォースの陰から進出を狙うブラストワンピースを封じ込め、相手に余計な行程を課すことに成功する。直線では、後方待機勢の出番はなく、先頭争いは先行勢に絞られ、逃げるエポカドーロを、背後からダノンプレミアムが、外からコズミックフォースとワグネリアンが追い上げるという形だった。ワグネリアンとコズミックフォースは2頭揃って、エポカドーロに並びかける。同じ頃、ダノンプレミアムはエポカドーロの背後から進出を謀ったが、追い上げてきた2頭の関係で進路がなくなり、ブラストワンピース同様に封じ込められ脱落した。残り200メートルで残り3頭となり、まずコズミックフォースが脱落。残り100メートルからは残り2頭、逃げるエポカドーロと迫るワグネリアンの争いとなった。それから福永の右ムチを合図に末脚を発揮したワグネリアンが残り50メートルで差し切りを果たし、半馬身差をつけて決勝線を通過する。(詳細は#苦境からの戴冠を参照) 東京優駿優勝、重賞2勝目を挙げる。騎乗した福永は、19回目の挑戦でダービー戴冠を果たした(詳細は、#"福永家の悲願"を参照)。また友道は、2016年マカヒキ以来となるダービー2勝目。生産したノーザンファームは、史上最多記録となる4連覇並びに9勝目。オーナーの金子は、2004年キングカメハメハ、2005年ディープインパクト、2016年マカヒキに続いて、史上最多記録となる4勝目だった(ノーザンファーム並びに金子の史上最多記録については#ダービー最多優勝記録を参照)。さらに、中京競馬場デビュー馬としては、1980年オペックホース、1991年トウカイテイオー、1992年ミホノブルボンに続いて27年ぶり史上4頭目となるダービー戴冠だった。
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東京優駿(日本ダービー)
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「第164回天皇賞」の記事における「東京優駿(日本ダービー)」の解説
着順馬番競走馬名性齢騎手斤量タイム着差単勝オッズ人気1着 10 シャフリヤール 牡3 福永祐一 57 2:22.5 11.7 4 2着 1 エフフォーリア 牡3 横山武史 57 2:22.5 ハナ 1.7 1 3着 11 ステラヴェローチェ 牡3 吉田隼人 57 2:22.7 1.1/4 40.2 9 天候:晴、馬場状態:良第88回東京優駿(日本ダービー)は、中団でレースを進めたシャフリヤールが、直線で狭いところをこじ開けて進路を確保し、先に抜け出していたエフフォーリアに内から並びかけて競り合い、これをハナ差下して優勝した。初黒星を喫したエフフォーリアは、菊花賞を回避し、天皇賞(秋)で始動することとなった。
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東京優駿(日本ダービー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:52 UTC 版)
「エフフォーリア」の記事における「東京優駿(日本ダービー)」の解説
「第88回東京優駿(日本ダービー)」も参照 5月13日に帰厩。最終追い切り後、武史は「思った通りの調教ができましたし、ゴール板を過ぎてからも馬はまだまだ余力があったのでとても良い調教だったと思います。前と後ろに馬を挟むことによって、馬が力む仕草とか、その辺の感触も見られたので、とても良い調教だったかなと思います。戦後最年少とかは意識していないですが、サトノレイナスはじめ強い馬はたくさんいます。中山より東京の方が力を発揮する馬もいると思うので、皐月賞組も強敵にはなってくると思います」と語った。鹿戸は「少しまだ身体に余裕が見られたので後ろの馬に追いかけてもらって最後はファイトするぐらいの感じで行くようにという調教でした。とても良い動きでしたし、ファイトした時も行き過ぎず、良い感じで走っていたと思います。フットワークが大きい方ですし、中山よりは東京の方が向いていると思います」と語った。 5月30日、日本ダービー(芝2400m)に出走。単勝1.7倍の圧倒的な1番人気に推された。過去に多くの優勝馬を出している1枠1番からスタートすると、道中は最内の中団を追走。残り500mあたりで外めに持ち出すと一気に伸びて先頭へ抜け出したが、ゴール直前で内側からシャフリヤールに強襲され最後は首の上げ下げの際どい勝負となった。写真判定の結果、わずか10cmの差で2着となり、無敗の2冠を逃した。なお、本馬の父・エピファネイア、父父・シンボリクリスエス、母父・ハーツクライも日本ダービーで2着となっており、一族の無念を晴らすことは叶わなかった。
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東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 17:58 UTC 版)
5月27日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に出走。当日の東京競馬場には競馬場のある東京都府中市の総人口に匹敵する19万6517人が来場し、世界レコードの観客数であった。皐月賞の上位3頭が再び揃ったが、アイネスフウジンは連敗により評価が下落。メジロライアンとハクタイセイが単勝オッズ3倍台の1、2番人気を占めたのに対し、アイネスフウジンは5.3倍の3番人気であった。 12番からスタートし、内枠の馬らを制してハナを奪い、最初の第1コーナーを通過する。そのまま逃げて1000メートルを59.8秒で通過するペースを刻んだ。向こう正面では状態の悪い馬場の内側を避けて逃げ、後方に4馬身以上のリードを守っていた。最終コーナーでは、馬場の内側からハクタイセイが追い上げてきたため、途中でペースを緩めることなく勢いそのまま先頭で通過。直線では徐々に加速し、内から並びかけようとするハクタイセイが迫ったが先頭を守った。それから外から追い上げるメジロライアンも退けた。メジロライアンに1馬身4分の1差をつけて決勝戦を通過。走破タイム2分25秒3は、1988年のサクラチヨノオーが記録した東京優駿のレコードタイムを1秒更新する勝利であり、1975年優勝のカブラヤオー以来となる逃げ切り勝利であった。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 【左】駈歩(キャンター)【右】速歩(ダク) アイネスフウジンは入線直後に躓くなど余力が尽き、キャンター(駈歩)することができずダク(速歩)でゆっくり戻ることとなった。他の馬が向こう正面から馬場を去ったが同じようにできず、スタンド前からの退場を目指した。観客はレースが終わり数分経過したが、ゆっくり退場を目指すアイネスフウジンに注目し、多くはその場から立ち去ることはなかった。アイネスフウジンがスタンドに近づくにつれ、観客の若者から手拍子に合わせて、自然発生的に「ナ・カ・ノ・ナ・カ・ノ」と歓声が上がる。するとコールは、競馬場内の老若男女に波及。やがて、競馬場にいる19万人全体の合唱へ変化し、音量は、スタンドを越えて正門付近で聞こえるほどだった。この行為は、後に「ナカノ・コール」と呼ばれた。 ナカノ・コール以降、勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれ、主催する日本中央競馬会(JRA)も大レースでの入場制限や警備、救護などを強化するきっかけとなった。同時にレース前日から競馬場門に並ぶ「徹夜組」や発走前のファンファーレに合わせた手拍子をする文化も誕生している。(レースおよび「ナカノ・コール」に関する詳細は、第57回東京優駿を参照。) 一方のアイネスフウジンは、退場の後の表彰式を終えて馬房に戻ると、左前脚が腫れていることが判明。左前脚の屈腱炎が判明し夏以降はいわき市で2か月半温泉療養などを行って復帰を目指したが、美浦に帰厩して8月30日の初時計後に再び足元に不安が出たことから現役を引退。引退式をJRAから薦められたが、「脚部不安で引退するのに、フウジンを馬場には出せない」との意向で行われなかった。
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東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:35 UTC 版)
NHK杯のレース後、増沢はハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」という印象を抱き、さらに2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したものの、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し、獣医師は疲労の蓄積を指摘した。しかし、鈴木勝太郎は獣医師から「本調子ではないが、かといって欠場するほどの状態でもない」と伝えられ、「あれだけファンに支持されている馬だし、NHK杯でとても届かないような位置から追い込んだレースぶりから、あの馬の勝負根性に賭けてみたい気もあった」として、東京優駿出走を決意した。 東京優駿当日の5月27日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時)の66.6%に達し、単勝馬券の売り上げの約4億7000万円のうち約3億2000万円がハイセイコーに投じられ、単勝オッズは1.2倍を記録した。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしていた。しかし、スタート後の第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ、さらにインコースに入りすぎてしまった。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した。第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープとイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた。タケホープが記録した勝ちタイムの2分27秒8は、前年の勝ち馬ロングエースが記録したレコードタイムを0秒8更新し、タケホープの管理調教師の稲葉幸夫、鞍上の嶋田は前週ナスノチグサで優勝したオークスに続いて、2週連続でのクラシック勝利となった。 赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにした東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれたという。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し、「体型的にいってハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語った。増沢も距離と左回りに対する不安を語り、またレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げ、1982年のダービー前に受けたインタビューにおいてこの時のダービーを念頭に「ダービーだけは、どんなに強い馬でも勝てないことがあるんですよ。力があって、そこに運がなければ、ダービーはとれませんね」と発言している。レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたものの、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった。勝ち馬のタケホープに対しては、作家の典厩五郎によると「パラパラと小さな拍手があったのみ」であり、「ダービー馬があれほどもの静かに、あれほど冷淡に迎えられたことがあっただろうか」と回想している。 鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけた時に「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている。石川喬司は、「直線でタケホープとイチフジイサミにかわされたとき、ハイセイコーがチラッとスタンドに視線を向けたような気がした」と回顧し、「まるでボクはもうダメです、と訴えているように見えた。あの視線は忘れられない」と振り返っている。詩人の寺山修司は、日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」詩上で自身が執筆したダービーの観戦記の中で「ダービーに出走してきたのは、ハイセイコーではなかった。あれは、ハイセイコーに瓜二つの公営の馬だった」、「並外れた能力の持ち主だが母の父馬がカリムなので距離が少し苦しい。関係者は、ハイセイコーをベルモントステークスに出走させてセクレタリアトの三冠を阻むためにニューヨークへ空輸してしまい、レースに出走したことがない替え馬専門の馬が留守を務めることになった」という持論を展開し、「ハイセイコーがタケホープに負ける訳がない」と述べた。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中で最も実力があるのはハイセイコーだと述べた。 東京優駿の敗戦は「不敗神話の崩壊」、「『怪物性』が馬脚を現した」、「偶像が虚像と化した」と評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べ、阿部珠樹は「ダービーの敗戦は、ハイセイコーをオーソドックスな日本の英雄に変えたといってもよいだろう」と述べている。
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