WWF以降
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「ウェンディ・リヒター」の記事における「WWF以降」の解説
WWF脱退後はカルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCに参戦。1987年5月にはモンスター・リッパーを破りWWC女子王座の初代チャンピオンに認定された。リッパーとは、同年12月にもカルガリーでIWA世界女子王座を争っている。 1988年は末期のAWAにてメデューサ・ミセリーと抗争し、11月26日にミネソタ州ブルーミントンにてメデューサからAWA女子王座を奪取。AWAでは、メデューサと結託するバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)とのミックスド・タッグマッチも行われた。 引退後は不動産仲介業者に転じる一方、理学療法士と作業療法士の医療資格を取得。長らくプロレス業界との関わりを絶っていたが、2005年1月29日にフロリダ州タンパで行われたリユニオン・イベント "WrestleReunion" にて公の場へ久々に登場し、マリア・ホサカらと組んで8人タッグマッチでシェリー・マーテルのチームと対戦した。 WWEとは1985年以来、絶縁状態が続いていたものの、2010年に殿堂入りが実現。インダクターはロックン・レスリング期のWWFを共に支えたロディ・パイパーが務めた。2012年はシンディ・ローパーやパイパーと共に、6月18日放送のRAWに登場した。
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WWF以降
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1996年9月よりWCWに移籍し、アメイジング・フレンチ・カナディアンズ(The Amazing French Canadians)とチーム名を変更してジャック・ルージョーとのコンビを再結成。ナスティ・ボーイズやハーレム・ヒートとも対戦して、モントリオールではザ・ジャイアントとのシングルマッチも組まれたが、WWF時代のような活躍はできず翌1997年の半ばにWCWを解雇された。 以後、オットー・ワンツの主宰するドイツ・オーストリアのCWA遠征を経て、1998年にジョバーのポジションでWWFに復帰。7月20日の『Raw is War』では "WWF Brawl for All" の一回戦でスティーブ・ウィリアムスに敗退した。その後は当時のWWFのファーム団体だったテネシー州メンフィスのPPWにて、クリス・キャノンボール(Kris Kannonball)のリングネームで活動。1999年7月には、ピエールの名義で全日本プロレスに来日している。 2000年は本名のカール・ウエレとしてECWに参戦、フィラデルフィアのECWアリーナにてジャスティン・クレディブルのECW世界ヘビー級王座に挑戦した。同年下期にはWCWに短期間再登場し、ランス・ストーム率いるチーム・カナダに加入。8月14日の『マンデー・ナイトロ』にて前王者ストームからWCWハードコア王座を譲り受けたが、同夜にノーマン・スマイリーに奪取された。 その後、IWAプエルトリコなどを経て、2003年に覆面レスラーのXに変身してTNAに登場、クリストファー・ダニエルズやサンジェイ・ダットを相手に試合を行った。以降はPCOことピエール・カール・ウエレ(Pierre Carl Ouellet)を正式なリングネームに、IWS(International Wrestling Syndicate)やTOW(Top of the World Wrestling)などモントリオールのインディー団体で活動。WWEのダーク・マッチにも時折出場して、2007年から2008年にかけてはトミー・ドリーマーやチャーリー・ハースと対戦した。2009年5月30日には、IWSの10周年記念興行にて因縁のケビン・ナッシュをタップアウトさせている。 2011年2月8日、ケベックのラジオ局のインタビューにて引退を声明。前年の2010年6月19日にTOWで行われたデズモンド・ウルフ戦が引退試合となった。
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WWF以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 08:11 UTC 版)
1992年の『サバイバー・シリーズ』を最後にWWFを離脱。インディー団体を転戦後、1995年にWCWと契約したが、1999年の契約満了まで、ショーにはほとんど出場することがなかった。髪をブロンドに染めて「ゴージャス・ジョージ」に変身し、ランディ・サベージのマネージャーになるという案もあったが頓挫、ジョージ役は最終的に、当時のサベージのガールフレンドだったステファニー・ベラーズが演じている。 セミリタイア後もインディー団体へのスポット出場を続け、2007年8月23日にカナダのオンタリオ州オタワで行われたリユニオン・イベント "SuperEx Showdown" ではカマラと対戦。2010年4月10日にはペンシルベニア州のIWC(International Wrestling Cartel)にてココ・B・ウェアとのレジェンド対決が行われた。 WWF時代のギミックの通り、彼は実際に詩作の才能を有しており、嫌煙をテーマにした子供向けの詩集 "Limericks from the Heart (and Lungs!) " を2004年に発表している。 2015年3月28日、ランディ・サベージのWWE殿堂入りにおいて、2011年に死去したサベージに代わって式典に出席。かつてのギミックそのままに、兄の功績や思い出をポエムにして読み上げた。
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WWF以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 07:44 UTC 版)
イーディーはWWFを退団してからも同様のリングネームとコスチュームを使い続け、マスクド・スーパースター時代の主戦場だった新日本プロレスにも来日した(1991年6月にはデモリッション・スタイルのカナディアン・ジャイアントなる巨漢選手を帯同したこともある)。アメリカのインディー団体ではアクシズ・ザ・デモリッシャー(Axis the Demolisher)という挑発的なリングネームを名乗り、"元祖スマッシュ" のコリーと共に自分たちがオリジナル・デモリッションであることを主張した。これに対しWWFがクレームを付けたため、イーディーは1990年代半ばにギミックの使用権を巡る訴訟を起こすが敗訴(イーディーは「WWFでの終身雇用を条件にビンス・マクマホンに使用権を譲渡したにもかかわらず、WWF側は約束を反故にした」などと主張した。企画段階におけるデモリッションのキャラクター・コンセプトには、イーディーとコリーの発案も部分的に反映されていたという)。 それ以来、イーディーはWWEと絶縁状態であり、またアダムスも2007年8月13日に死去したため、WWEのリング上でデモリッションが再結成されたことは一度もない。しかしメンバー同士の間柄は良好で、イーディーとダーソウはアダムスの死去から約6週間後の9月29日、彼への追悼も込めてフロリダ州オーランドのUXW(United States Xtreme Wrestling)で16年ぶりにコンビを再結成。2008年2月29日にはワンマン・ギャングを交えたチームWWFとして、ペンシルベニア州フィラデルフィアのインディー団体チカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントに出場している。 2009年は、2月28日にニュージャージー州のJAPW、10月10日にペンシルベニア州のKSWA(Keystone State Wrestling Alliance)に参戦。2010年は、9月25日にケベック州モントリオールのTOW、10月29日にニューヨーク州クイーンズのICW(Impact Championship Wrestling)、11月13日にイリノイ州のPOWWに登場。2011年5月21日にはROHの姉妹団体だったFIP(Full Impact Pro)のPPV "Full Force 2011" に出場した。2012年12月1日にはウィスコンシンのインディー団体GLCW(Great Lakes Championship Wrestling)にて、シャンハイ・ピアース&テックス・スラシンジャーと対戦した。
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