2006年 - 2016年(メジャーデビューから活動休止まで)
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「いきものがかり」の記事における「2006年 - 2016年(メジャーデビューから活動休止まで)」の解説
2006年3月15日に1stシングル「SAKURA」でエピックレコードジャパンよりメジャーデビュー。5月31日に発売された2ndシングル「HANABI」はオリコンチャート初登場5位でシングル・アルバム通じて初のTOP10入りを果たす。11月10日から初のライブツアー「いきものがかりのみなさん、こんにつあー!! 2006」を開催(11月30日まで)。 2007年3月7日、メジャー1stアルバム『桜咲く街物語』を発売。3月13日には『第21回日本ゴールドディスク大賞』でザ・ベスト10・ニューアーティストに選出される。 2008年2月13日にリリースした2ndアルバム『ライフアルバム』がオリコンチャート初登場2位で初のTOP3入りを果たす。また、10thシングル「ブルーバード」もオリコンチャート初登場3位を記録し、シングルでは初のTOP3入りを果たした。12月24日に3rdアルバム『My song Your song』発売し、シングル・アルバム通して初のオリコンチャート1位を獲得した。12月31日に『第59回NHK紅白歌合戦』に初出場。 2009年9月23日に15thシングル「YELL/じょいふる」発売し、オリコンデイリーチャートでシングルでは初の1位を記録、週間チャートでも初登場2位でシングルでは自己最高順位となった。「YELL」は12月1日に行われた『第51回日本レコード大賞』で優秀作品賞、12月20日に『第42回日本有線大賞』では有線音楽優秀賞を受賞した。 2009年12月23日にメジャー4thアルバム『ハジマリノウタ』を発売し、翌2010年3月25日から初の日本武道館公演を含む全47都道府県を巡るライブツアー「いきものがかりの みなさん、こんにつあー!! 2010 全国あんぎゃー!! 〜ハジマリノウタ〜」を開催した。同年5月5日に発売した18thシングル「ありがとう」は初動・累計売上ともに自己最高を記録。11月3日に初のベストアルバム『いきものばかり〜メンバーズBESTセレクション〜』を発売すると、発売から2ヶ月で売上が100万枚を突破し、シングル・アルバム通じて初のミリオンセラーを達成した。11月20日に『第52回日本レコード大賞』でアルバム『ハジマリノウタ』が最優秀アルバム賞を、「ありがとう」が優秀作品賞を受賞した。「ありがとう」は翌2011年の「第83回選抜高等学校野球大会」の開会式入場行進曲に選出され、2011年7月2日には「ありがとう」のPVが『MTV Video Music Aid Japan』で最優秀ポップビデオ賞を受賞した。また『いきものばかり〜メンバーズBESTセレクション〜』は2012年1月27日、『第26回日本ゴールドディスク大賞』でアルバム・オブ・ザ・イヤー(邦楽部門)を受賞した。 2010年11月頃から楽曲制作に専念するためにステージ活動を休止するという報道が相次いだが否定している。 2011年7月23日・24日、初の野外スタジアム公演「いきものまつり2011 どなたサマーも楽しみまSHOW!!! 〜横浜スタジアム〜」を開催。同年7月20日に発売した「笑ってたいんだ」が、11月19日に『第53回日本レコード大賞』で優秀作品賞を受賞した。 2012年2月29日に5thアルバム『NEWTRAL』を発売し、オリコンアルバムチャートで週間1位を獲得。7月18日に発売した「風が吹いている」が、11月22日に『第54回日本レコード大賞』で優秀作品賞を受賞。12月31日には、2008年から5年連続で出場している『第63回NHK紅白歌合戦』で初の紅組トリとして「風が吹いている」を披露した。 2012年11月7日にソニー・ミュージックエンタテインメントがiTunes Storeにおける邦楽アーティストの楽曲配信を解禁したことに伴い、「ノスタルジア」以降のシングル及びメジャーデビュー後に発表したアルバム全作品がiTunes Storeで配信開始された。 2013年7月10日に発売した「笑顔」が、11月22日に『第55回日本レコード大賞』で優秀作品賞を受賞。7月24日に6thアルバム『I』を発売し、オリコンアルバムチャートで週間1位を獲得。8月17日に水野が公式ファンクラブサイトにて一般女性との結婚を発表。 2014年10月15日に発売した「熱情のスペクトラム」が、11月20日に『第56回日本レコード大賞』で優秀作品賞を受賞した。12月24日に7thアルバム『FUN! FUN! FANFARE!』を発売し、オリコンアルバムチャートで週間1位を獲得。 2016年、メジャー・デビュー10周年を迎え、3月15日にベストアルバム『超いきものばかり〜てんねん記念メンバーズBESTセレクション〜』を発売した。また、10周年を記念した地元の海老名市・厚木市での野外スタジアム公演『超いきものまつり2016 地元でSHOW!! 〜海老名でしょー!!!〜 / 〜厚木でしょー!!!〜』を8月27日から9月11日まで4公演開催。8月24日に発売した「ラストシーン」が11月18日の『第58回日本レコード大賞』で優秀作品賞を受賞。
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2006年~2016年(日本代表監督退任後、各国でのクラブ・代表監督など)
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2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。その後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。 2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。 2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任していた。2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選(最終予選)の対日本代表戦(10月15日・さいたまスタジアム)に自身が来日して視察するのは断念したものの、日本代表対策をカシモフ監督に伝授し、アウエーでの1-1の引き分け(勝ち点1獲得)に貢献した。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのCSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。 2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。 2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。 2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。 2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した。 2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンド、ドゥンガ、ロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。 2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた。 2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した。 2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。 2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。9月11日には予定通り対日本代表戦(埼玉スタジアム)を指揮し、翌日には鹿島アントラーズを訪問した。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した。 2013年8月、カタールのアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった。 2014年9月、インディアン・スーパーリーグのFCゴアの監督に就任。
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