1960年代:安全保障条約と領土の返還
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「日米関係」の記事における「1960年代:安全保障条約と領土の返還」の解説
詳細は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」および「本土復帰」を参照 1952年の日米安全保障条約の改定に関する2国間対話は1959年から始まり、1960年1月19日にワシントンにて、新たに日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が調印された。2月5日に条約が批准のために国会に付託された時、日米関係の議題をめぐり激しい議論が行われ、条約に反対する左翼は総力を挙げてその国会通過を阻止しようとした。5月20日に条約はついに衆議院において承認された。日本社会党の議員らは衆議院の下級の委員会を欠席し、自由民主党の議員が議会に入場するのを阻止しようとしたが、彼らは警察によって取り除かれた。学生による大規模なデモと暴動が起こり、労働組合もそれに続いた。これらの激しい運動はドワイト・D・アイゼンハワー大統領が予定していた日本訪問を妨害し、岸信介首相の辞任を早めたが、衆議院の承認から30日以内に参議院がこの問題について投票を行うことができなかったため、憲法の規定により6月19日に条約は自然成立した。 条約の下で両国は日本国の施政下にある領域内で武力攻撃された場合の相互協力を確認した。(そのように理解されているが、しかしながら日本は海外への派兵を禁止する憲法9条の規定により、アメリカを防衛することはできなかった。特に憲法は「陸海空軍」の保持を禁止している。)それはまた、日本の人々が「国際紛争を解決する手段として武力をもって脅したり、武力を用いること」を禁じている。そのような状況の中で、日本人は彼らの自衛隊を送ることが平和維持活動が目的である場合でさえ難しいことを見出した。新しい条約の焦点は南西諸島には及ばず、攻撃された場合は両国の政府が協議し、適切な行動をとることの確認に向けられた。条約は両国の政府が事前の協議を開始するまで、在日米軍は展開において大きな変更を行わないことにも触れている。1952年の条約とは異なり、新しい条約は10年の期限の後は、双方は1年前に予告すれば、破棄できることが定められた。条約には将来の国際的な開発の協力と経済協力の発展についての総合的な準備が含められた。 両国は講和条約の第3条の下でアメリカが約束した、戦争で獲得した全ての日本の領土を返還することを実行に移すため、緊密に作業を行った。1968年にアメリカは硫黄島を含む小笠原諸島を日本に返還した。1969年に沖縄返還問題と日本の安全保障をめぐるアメリカとのつながりは政党間の政治的なキャンペーンの焦点となった。1969年に佐藤栄作首相はワシントンを訪問し、状況はかなり改善された。佐藤首相とリチャード・ニクソン大統領は署名した共同声明の中で、1972年に沖縄が日本に返還されることでアメリカと合意したと発表した。18か月もの交渉の後、1971年6月に両国は1972年に沖縄を日本に返還する協定に署名した。 日本の政府による安全保障条約の断固たる、また自発的な承認と沖縄返還問題の解決は、日米関係における2つの大きな政治問題が解決したことを意味したが、しかし新たな問題が生じた。1971(昭和46)年7月に日本政府はニクソンの電撃的な中国訪問の発表に驚かされた。そのような外交政策における根幹的な変化について決断する前にアメリカから事前の相談がなかったことを多くの日本人は残念に思った。翌月に日本からアメリカへの輸出を妨げる為、事前の相談無くアメリカが輸入品に10パーセントの課徴金を課したことに政府は再び驚かされた。同年12月の日本円の切り上げという金融的な危機により、東京とワシントンの関係はさらに緊迫した。 1971年のこれらの出来事は政治・経済双方の分野において緊張した出来事が無くは無く、基本的な関係は良好なままであったが、両国関係が新しい段階に入り、変化し続ける世界情勢への調整の時期が始まったことを示した。両国間の政治的問題は本質的に安全保障に関連したものであり、アメリカ政府は日本政府に対し自主防衛とこの地域の安全保障へのより大きな貢献を促した。経済の問題はかつてない規模に成長したアメリカとの貿易とアメリカが対日貿易赤字に陥ったことに起因する傾向にあった。1965年に日本はアメリカとの貿易で史上初めて黒字を記録した。
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