1506年のカザン遠征
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「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の記事における「1506年のカザン遠征」の解説
1505年の秋に統治権を引き継いだイヴァン3世の息子である新大公ヴァシーリー3世は、1506年の春にカザン・ハン国の服属を目的とする大規模な同国への遠征に直ちに取りかかった。軍全体の指揮はヴァシーリー3世の弟であるドミトリイ・イヴァノヴィチ(ロシア語版)に委任された。彼のもとには勿論、経験豊かな軍司令官がいたものの、ドミトリーは総司令官のように重要な役割を担った。なお、ドミトリーに大軍勢の指揮を委任するという試みはこれで2回目であったが、1回目の試みであった1502年のスモレンスク遠征では期待された勝利がもたらされず、完全な失敗となった。カザン遠征も同様にロシア軍の大失敗に終わり、これ以降はドミトリーに指揮を委任されることはなかった。 1506年4月に遠征が開始され、歩兵を搭乗した船団をドミトリー自身と軍司令官であるフョードル・イヴァノヴィチ・ベリスキー公(ロシア語版)が率いた。アレクサンドル・ヴラディーミロヴィチ・ロストフスキー公(ロシア語版)指揮下の騎兵部隊は陸路を進んだ。5月22日に船団はカザンに近付くと、ドミトリーは船から降りて徒歩戦で同都市を攻撃することを直ちに命令した。タタール軍はこれを迎え撃って戦端が開かれた。この時にカザン軍の騎兵部隊は密かにロシア軍の背後に回って彼等を船団から孤立させた。ロシア軍には混乱が生じ、その結果、多くの者が殺されたり捕虜となったり、ポガン湖で溺死するなどして大敗北を喫した。その一方で、一部の軍勢が船上でカザンから遠くないところに留まっていたために完全なる壊滅とはならなかった。 遠征の失敗を知ったヴァシーリー3世は他の軍司令官よりも軍才のあった司令官であるホルムスク公ヴァシーリーにカザンに向かうように命じ、自らの弟であるドミトリーに対してホルムスク公が到着する前に再度攻撃に着手しないよう命じた。しかし、6月22日にロストフスク公率いる騎兵部隊がカザンに近付いた時には、ドミトリーは更に引き延ばすことを重要なこととは見做さずに 軍勢に再度カザンを攻撃させた。この襲撃はロシア軍の完敗に終わった。1506年にヴァシーリー3世は、船団と騎兵の2つの大規模な軍団から成る大軍勢をカザン・ハン国に派遣した。5月22日にムハンアンド・アミンはカザンから程遠くないところで一足早く着いた船団を撃破し、1ヶ月後の6月25日、騎兵部隊が接近した時には既にロシアの統合軍は全滅していた。幾つかのロシア側の史料によるとロシア軍は100000人の戦力であった。カール・マルクスは自著であるロシア史概要にて、この戦闘のことを「ロシア軍はカザンにて7000人に減じて壊滅した」と綴っている。この言葉に従うならば大規模な会戦だったことになる。チンギス・カン並びにバトゥによる襲撃以降で、ルーシがこのような敗北を知ったことは未だかつてなかった。同時代の人はこの時の戦闘をクリコヴォの戦いと比較している。ヴァシーリー3世は「従来通りの平和と友好」という和平をムハンマド・アミンと締結することを余儀なくされた。もう少し先のジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインは「カザンはモスクワの主権から独立した」と綴っている。 『カザン年代記』やА.И.Лызловの『スキタイ人の歴史』では1508年の項では以下のように綴られた。 отвори врата царь градныя и выехав со 20000 конными, а 30000 пешцев, черемисы злыя, и нападе на полки руския… Воевод же великих 5 убиша: трех князей Ярославских, князя Андрея Пенка да князя Михаила Курбскаго, да Карамыша с братом его, с Родоманом, да с Федором Киселевым, а Дмитрея [Ивановича, брати Василия III] же взяша жива на бою, и замучи его царь казанский злогоркими муками. И от тое 100000 осташася 7000 русских вои このカザンへの攻勢は1505年から1507年までのロシア・カザン戦争の範囲内で行われた。15年にも渡るロシアの専横やハンのすげ替え並びに彼等のロシアの地への追放はタタール人の民族感情を酷く傷付け、タタール人の宮廷貴族も一般の民衆にも抵抗を呼び起こしたというのが開戦前夜の流れであった。モスクワ勢力追放後にハンに復位したムハンマド・アミンは、ロシアの圧力に終止符を打つことに決めて1502年から1505年の3年間の間、密かにロシアとの戦争準備を進めた。彼は、老齢のイヴァン3世、ロシア人の警戒心の喪失、宮廷における「新ロシア派」の緩みなどの自らの置かれている状況の変化が改善されていることを考慮に入れていた。戦争はカザン川から始まり、まばらな成果を挙げながらイヴァン3世が死ぬまでの1505年の秋まで続いた。1506年の春にヴァシーリー3世はカザン遠征のための軍勢を組織した。1506年5月22日にロシア軍の歩兵部隊はカザン付近で下船し、一切の偵察抜きで同都市に向ってヴォルガの岸沿いに進んだ。同軍は正面と背後の2方面からタタール軍の攻撃にさらされて早々と壊滅した。ロシア軍の敗北を知った政府は同軍の敗残兵に対して軍事的活動を再開せずに増援部隊を待つことを命じて新たな軍勢を組織始めた。だが、1506年6月22日に、戦闘に参加することを未だ承諾していなかったロシア軍騎兵の先発隊はカザンに近付き、ロシア軍司令官は後発隊が来るのを待たずして、モスクワからの禁令に反して同都市への新たな攻撃を開始することを決めた。この攻撃はロシア軍の完敗に終わった。結果、軍隊はあたかも独自の戦力のように存在することを事実上やめた。100000人の兵力のうち、生き残ったのは約7000人であった。ロシア軍を壊滅させたタタール軍は50000人であった。打ち負かされたロシア軍はタタール軍騎兵の追跡を受けつつカザン・ハン国内から逃げ落ちた。その一方でこれは完敗ではなかった。ドミトリー公は一部の軍勢を伴ってニジニ・ノヴゴロドに撤退することが出来た。タタールの皇子ジャナイ(ロシア語版)と軍司令官フョードル・ミハイロヴィチ・キセリョーフ(ロシア語版)率いる別のロシア軍部隊はムーロムに向い、道中でタタール軍の襲撃に遭ったものの撃退して同都市に無事に辿り着いた。 この敗北についての詳しい事実は、『カザン年代記』に遡ることが出来る。同書によれば、カザン市民は城壁付近で大規模な定期市と祝賀会を行い、カザンの目の前の草原に商品を並べた多数の露店があった。タタール人はカザンに避難し、ロシア軍は掠奪や飲酒に耽った。別の日にタタール軍はカザンから打って出てロシア軍を完膚なきまでに叩きのめした。この説話の異本では、商品や酒を並べた露店は、とりわけ狡猾な陰謀であったかのように行われたという点で異なっている。 しかし、同書には疑わしい点が存在し、物語上多くの不自然な細部があると結論付けられている。例えば、地理的な事柄が無茶苦茶であり(ツァーリーツィン平原とアルスク高原)、諸年代記ではこの戦いの後再三に渡って生きているかのように言及されているドミトリー・イヴァノヴィチ自身並びに多くの軍司令官が戦死したとしている。2日間に及ぶ略奪の間、ロシア軍司令官は如何なる軍規も回復することが出来なかったことが僅かに信頼性に足りている。
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