1506年のカザン遠征とは? わかりやすく解説

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1506年のカザン遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 09:17 UTC 版)

ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の記事における「1506年のカザン遠征」の解説

1505年秋に統治権引き継いだイヴァン3世息子である新大ヴァシーリー3世は、1506年春にカザン・ハン国服属目的とする大規模な同国への遠征直ち取りかかった。軍全体指揮ヴァシーリー3世の弟であるドミトリイ・イヴァノヴィチ(ロシア語版)に委任された。彼のもとには勿論、経験豊かな軍司令官いたものの、ドミトリー総司令官のように重要な役割担った。なお、ドミトリー大軍勢の指揮委任するという試みはこれで2回目であったが、1回目試みであった1502年スモレンスク遠征では期待され勝利もたらされず、完全な失敗となったカザン遠征同様にロシア軍大失敗終わり、これ以降ドミトリー指揮委任されことはなかった。 1506年4月遠征開始され歩兵搭乗した船団ドミトリー自身軍司令官であるフョードル・イヴァノヴィチ・ベリスキー公(ロシア語版)が率いた。アレクサンドル・ヴラディーミロヴィチ・ロストフスキー公(ロシア語版指揮下の騎兵部隊陸路進んだ5月22日船団カザン近付くと、ドミトリーは船から降りて徒歩戦で同都市攻撃することを直ち命令したタタール軍はこれを迎え撃って戦端開かれた。この時にカザン軍の騎兵部隊密かにロシア軍背後回って彼等船団から孤立させた。ロシア軍には混乱生じその結果多くの者が殺されたり捕虜となったり、ポガン湖で溺死するなどして大敗北を喫した。その一方で一部軍勢船上カザンから遠くないところにまっていたために完全なる壊滅とはならなかった。 遠征の失敗知ったヴァシーリー3世は他の軍司令官よりも軍才のあった司令官であるホルムスクヴァシーリーカザンに向かうように命じ、自らの弟であるドミトリーに対してホルムスク公が到着する前に再度攻撃着手しないよう命じた。しかし、6月22日にロストフスク公率い騎兵部隊カザン近付いた時にはドミトリーは更に引き延ばすことを重要なこととは見做さずに 軍勢再度カザン攻撃させた。この襲撃ロシア軍完敗終わった1506年ヴァシーリー3世は、船団騎兵2つ大規模な軍団から成る大軍勢をカザン・ハン国派遣した5月22日にムハンアンド・アミンはカザンから程遠くないところで一足早く着いた船団撃破し1ヶ月後の6月25日騎兵部隊接近した時には既にロシア統合軍全滅していた。幾つかのロシア側の史料によるとロシア軍100000人の戦力であったカール・マルクス自著であるロシア史概要にて、この戦闘のことを「ロシア軍カザンにて7000人に減じて壊滅した」と綴っている。この言葉に従うならば大規模な会戦だったことになる。チンギス・カン並びにバトゥによる襲撃以降で、ルーシこのような敗北知ったことは未だかつてなかった。同時代の人はこの時の戦闘クリコヴォの戦い比較している。ヴァシーリー3世は「従来通りの平和と友好」という和平をムハンマド・アミンと締結することを余儀なくされた。もう少し先のジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインは「カザンモスクワ主権から独立した」と綴っている。 『カザン年代記』やА.И.Лызловの『スキタイ人歴史』では1508年の項では以下のように綴られた。 отвори врата царь градныя и выехав со 20000 конными, а 30000 пешцев, черемисы злыя, и нападе на полки руския… Воевод же великих 5 убиша: трех князей Ярославских, князя Андрея Пенка да князя Михаила Курбскаго, да Карамыша с братом его, с Родоманом, да с Федором Киселевым, а Дмитрея [Ивановича, брати Василия III] же взяша жива на бою, и замучи его царь казанский злогоркими муками. И от тое 100000 осташася 7000 русских вои このカザンへの攻勢1505年から1507年までのロシア・カザン戦争範囲内行われた15年にも渡るロシア専横ハンすげ替え並びに彼等ロシアの地への追放タタール人民族感情酷く傷付けタタール人宮廷貴族一般民衆にも抵抗呼び起こしたというのが開戦前夜流れであったモスクワ勢力追放後ハン復位したムハンマド・アミンは、ロシア圧力終止符を打つことに決めて1502年から1505年3年間の間密かにロシアとの戦争準備進めた。彼は、老齢イヴァン3世ロシア人警戒心喪失宮廷における「新ロシア派」の緩みなどの自らの置かれている状況の変化改善されていることを考慮入れていた。戦争カザン川から始まり、まばらな成果挙げながらイヴァン3世が死ぬまでの1505年の秋まで続いた1506年春にヴァシーリー3世カザン遠征のための軍勢組織した1506年5月22日ロシア軍歩兵部隊カザン付近下船し一切偵察抜きで都市に向ってヴォルガの岸沿いに進んだ。同軍は正面背後の2方面からタタール軍の攻撃さらされ早々壊滅したロシア軍敗北知った政府は同軍の敗残兵に対して軍事的活動再開せずに増援部隊を待つことを命じて新たな軍勢組織始めた。だが、1506年6月22日に、戦闘参加することを未だ承諾していなかったロシア軍騎兵先発隊はカザン近付きロシア軍司令官後発隊が来るのを待たずして、モスクワからの禁令反して都市への新たな攻撃開始することを決めた。この攻撃ロシア軍完敗終わった結果軍隊あたかも独自の戦力のように存在することを事実上やめた。100000人の兵力のうち、生き残ったのは約7000であったロシア軍壊滅させたタタール軍は50000であった打ち負かされロシア軍タタール騎兵追跡を受けつつカザン・ハン国内から逃げ落ちた。その一方でこれは完敗ではなかった。ドミトリー公は一部軍勢伴ってニジニ・ノヴゴロド撤退することが出来たタタール皇子ジャナイロシア語版)と軍司令官フョードル・ミハイロヴィチ・キセリョーフ(ロシア語版率い別のロシア軍部隊ムーロム向い道中タタール軍の襲撃遭ったものの撃退して都市無事に辿り着いた。 この敗北についての詳しい事実は、『カザン年代記』に遡ることが出来る。同書によればカザン市民城壁付近大規模な定期市祝賀会行いカザン目の前草原商品並べた多数露店があった。タタール人カザン避難しロシア軍掠奪飲酒耽った別の日にタタール軍はカザンから打って出ロシア軍完膚なきまでに叩きのめした。この説話異本では、商品や酒を並べた露店は、とりわけ狡猾な陰謀であったかのように行われたという点で異なっている。 しかし、同書には疑わしい点が存在し物語多く不自然な細部があると結論付けられている。例えば、地理的な事柄無茶苦茶であり(ツァーリーツィン平原アルスク高原)、諸年代記ではこの戦いの後再三渡って生きているかのように言及されているドミトリー・イヴァノヴィチ自身並びに多く軍司令官戦死したとしている。2日間に及ぶ略奪の間、ロシア軍司令官如何なる軍規回復することが出来なかったことが僅かに信頼性足りている。

※この「1506年のカザン遠征」の解説は、「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の解説の一部です。
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