長府の地名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)
「長府」は現在まで続く地名で、府中・府町(ふまち)などとも言った。のちに古代の節で説明するが長府は長門国の国府であった。そのため、長府は長門国府の「長」と「府」に由来するものであると考えられている。 長府の古い地名として「豊浦(とよら)」があり、仲哀天皇の滞在した「豊浦の宮」にもその名前が見られる。明治初期・町村制施行前の長府の町村名にも「豊浦村」「豊浦町」と称す地域があった。「とようら」でなく「とよら」と読み、『和名類聚抄』にも「止与良」と書かれている。 その他、長府に存在する地名として下記のものがある(現存する地名の多くは現在の住所表記では「長府◯◯町」とされている)。右の地図をクリックすると地図が拡大され、各地名に対応する場所にピンが表示される。 長府南部 前田(赤) 中村徳美の著『長門国志』によると門の前であったから「まえど」であったのが前田になったという。 高畑(橙) 前田よりも奥の地域で、源平合戦の壇ノ浦の戦いのときに、敗北した平氏が逃げ込んだ場所であると伝えられている。そのため、地名の由来は平氏を表す赤旗からあかはた→たかはた→高畑になったと考えられている。 野久留米(黄色) 功山寺から南に進み野久留米街道を進んだ先で、最終的には前田に出る。 黒門(緑) 現在の忌宮神社の位置にあった豊浦の宮(古代節参照)の門がここにあり、これが黒木(皮の削っていない木)で作られたため黒門になったといわれている。忌宮神社境内にもこれに似た「黒戸の御戸」という場所があり、同じ意味と考えられている。 外浦(水色) 長府にある地名。 関峠(せきだお)(青) 長府の古い地名。『豊府志略』によると長府藩の居館(現在の豊浦高等学校)を北西とすると東が岸、南東が櫛崎城、南西が関峠とあるので、現在の長府庭園と下関市立美術館の間付近の道が関峠にあたる。 串(櫛)崎(紫) 長府にあった地名。現在は住所などでは宮崎となっている。串(櫛)崎の由来は海に対して出っ張っていることに由来する。宮崎となった理由はここにあった串崎八幡宮を毛利秀元が長府を治めていたときに宮崎八幡宮に改名されたためで、のちに毛利光広のときには松崎八幡宮と改名されたため松崎ともいわれた。 松原(黒) かつて数百本の松の大樹が生えていたことが由来であるが、明治維新のときにこれらは取り除かれてしまった。 長府中央 侍町(橙) 土肥実平(中世節土肥山城節参照)が平家鎮静のために派遣されていたときに彼と共に居た侍たちをこの付近に住まわせたことに由来する。土肥山城側(内陸部)を表侍町(または大名町)、海側を裏侍町と呼ぶこともある。 惣社町(黄色) 神功皇后がここに惣社(総社)を設置したことに由来する。 切通(緑) 長府毛利邸の東側に南北に伸びる通り。山を切ってこの道路を通したため切通と呼ばれる。切通の途中にある丁字路で東側に進むと古江小路に入る。 古江小路(赤) 昔は入江であったことが由来であると考えられている。城下町の雰囲気が現在でも残る通りで各家には土塀が巡らされている。古江小路にある菅家長屋門は下関市指定有形文化財に指定されている。古江小路を流れる鯉川という溝は古江川から変化したものであると思われている。 壇ノ上(水色) 長府の古い地名で現在の宮の内町の忌宮神社南鳥居付近。神功皇后が戦に備え、祭壇を設置したことに由来する。 北浜・中浜(青)・南浜 長府にある古い地名で現在は埋立地となった元海岸線付近の地名。松小田から松原・宮崎町付近にかけてを北から北浜、中浜、南浜と呼んでいた。現在町丁として残っているのは中浜のみで、南之町の北端から忌宮神社の東鳥居までが中浜町に該当する。 南之町(紫) 豊浦池旧跡から東側の道が北端、壇具川の川沿いが南端でその間が南之町に該当する。かつては南浜と言われていた場所である。 亀の甲(黒) 長門国府があったときに「上の国府」と呼ばれていた地域で、上→亀、国府→甲となって亀の甲になったと『長門国志』にある。 沖田(濃灰色) 長府の古い地名で亀の甲付近。北側で中土居や三島、西側で安養寺と接し、現在の豊浦小学校がある付近である。 中之町(黄緑) 土居の内の北側と接する。 金屋(桃色) もともと鋳物師の居住地域であったため金屋と言われるようになった。元応元年(1319年)ごろには「鉄屋」と書かれていたことが鋳物師を代々継いでいた安尾家の文書から分かっている。もともとは北浜と呼ばれた地域である。 中土居(下の図の黄色)・土居の内(上の図の茶色) 土居は堤防を意味し、中土居は堤防の中央、土居の内は堤防内側という意味である。 逢坂(薄灰色) もとは大坂であったと考えられており、由来は「大坂」のとおり、大きい峠に由来するものであると考えられている。 火除(ひよけ)小路(濃青色) 長府にある古い地名。逢坂の北側と覚苑寺の南側の境界にある通りである。覚苑寺の場所がまだ長門鋳銭所であったときに飛び火を恐れて神を祀った祠があったため火除小路といわれる。 安養寺(乾鮭色) 国分寺(現在は南部町に移動)の西側にあった奥の院安養寺があったことに由来する。 長府北部 印内(橙) 仲哀天皇が豊浦宮滞在に来たとき、印内は鬼門の方角にあったため陰陽師がここに住み、陰内、そして印内になったといわれている。 八幡(先八幡)・前八幡(緑) もともと宇都宮八幡宮という八幡宮があったためこれに由来する。 江下(水色) もともとは弥勒寺という寺院があり、その修行所を指す「会下(えげ)」があったことに由来する。また一説によると、かつて古川が流れていたときに逢坂川や安養寺川の合流地点がここであったため、江下になったという。 姥ケ懐(うばがふ(ほ)ところ)(青) 印内西側の現在の三島町の一部に当たる古い地名。由来は一説によるとここに住んでいた老婆が帆を作っていたため「姥が帆処」→「姥ケ懐」になったといわれている。別の説には姥ケ懐と呼ばれた地域の地形が内懐の形だったためという説もある。 三島(紫) 地名の由来は一説では三島の高台の方では長府の全景が見え、その中でも満珠島・干珠島が見えることから見島と呼ばれ、三島になったという。 古城町(黒) 昔、佐加利山城(下山城)があったと思われていることに由来する。 中六波(濃灰色) 由来は不明。 満珠町(黄緑) 住宅地で、由来は満珠島が見えるためであると考えられている。 松小田(赤) 天正2年(1574年)9月の毛利家家臣の書状に松小田の地名が見られる。松尾神社という神社の神田があり、松尾田から松小田になったと考えられている。 才川(桃色) 長浜 長府にあった地名。現在の松小田および才川を指していた。 扇町(茶色) 才川の東側にある埋立地。昭和39年(1964年)に着工し、昭和50年(1975年)からは住居表示が始まった。
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