転向
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「コリエーレ・デラ・セラ」の記事における「転向」の解説
1977年には、当時の与党であるキリスト教民主党との対立により、銀行からの融資を止められ資金難に陥っていた親会社のリッゾーリ社(当時)に対し、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件に、極右政党であるイタリア社会運動(MSI)の幹部で、元フリーメイソンの反共組織である「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表が融資を持ちかけた。 その後ジェッリ代表は関係の深かったバチカン銀行のポール・マルチンクス総裁が調達した資金をリッゾーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで保守主義的な論調を取ることとなった。
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転向
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1932年5月にはコミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」1932年7月10日特別号に発表される。ヨシフ・スターリンは日本の極左冒険主義を批判、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。 1933年6月、党委員長の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向声明を出した。これは、ソ連の指導を受けて共産主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動をおこなうという内容であった。田中は「生涯で一番ぐらつき」、煩悶する。同年、共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。ひではその後石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交した。 1934年獄中で天皇主義者に転向。田中は後年つぎのように回想している。「幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した」。また、佐野たちを転向させた平田勲ら思想検事の「治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない」という姿勢にも感銘を受けていたという。
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転向
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1932年(昭和7年)10月30日、静岡県熱海町で日本共産党幹部が一斉検挙された熱海事件が起こる。弾圧の嵐が吹き荒れる中、同年暮れに榊原は神谷光次、本多光太郎の甥の本多兵三郎らと日本共産党西三河地区委員会を結成した。シンパは数十人に及び、その中にはのちにCBCの重役となる安藤春夫もいた。地方としては画期的とも言える早い時期に生まれた「岡崎共産党」であったが、翌1933年(昭和8年)1月に大規模な検挙があり四分五裂。西尾市内のアジトにいた神谷は間一髪、警察の手を逃れ、冬の矢作川を徒歩で渡り安城のカフェで榊原と連絡。榊原も名古屋市内のアジトを転々として逃げ回ったが、3月には二人とも逮捕され、党細胞は事実上壊滅した。 獄中に転向。1933年(昭和8年)6月10日に佐野学と鍋山貞親が発表した転向声名に「刺戟され」たことを理由の一つに挙げている。 1935年(昭和10年)10月に刑期を終えるまで在獄期間は延べ4年余に及んだ。釈放後ただちに『岡崎朝報』に復帰。編集長の永野緑亭が病床に臥し、1年足らずで他界。同紙の主たる筆致は榊原が担うこととなり編集局長に就任。 1936年(昭和11年)3月11日、従業員3,400余名を有する日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎工場)において、労働者は15項目の要求書を会社側に提出。同盟罷業にはいたらなかったが争議は8月まで続いた。榊原は紙面全部を費やして工場側を批判し、工場長の森田丁也をして「あんたのようなムチャな人も珍しい」と言わしめた。左翼的な組合運動は衰退期にあったため、この争議では右翼団体の愛国皇民協会が仲介に入った。賃金3割値上げ、定期昇給の実施などの要求は容れられたものの、5名の工員が解雇された。 1940年(昭和15年)11月1日付で『岡崎朝報』は『新三河』を吸収し『三河新聞』に改称。同紙編集長に就任。1941年(昭和16年)12月13日に新聞事業令が公布され、一県一紙の国策により1942年(昭和17年)7月30日、『三河新聞』も廃刊となる。岡崎商工会議所から編纂を委嘱され、同年12月15日、『岡崎商工会議所五十年史』を刊行した。岡崎市長の菅野経三郎の紹介により日本ガラ紡糸統制会社に入社。1943年(昭和18年)暮、白紙動員の令書を受け、徴用工として名古屋市の軍需工場に移る。
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