諸文芸・諸芸能と「君が代」
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「君が代」の記事における「諸文芸・諸芸能と「君が代」」の解説
「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代〜室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前が源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。 『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」 「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。 義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに… 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」 静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな 吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき 安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。 16世紀の薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、撥も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。 蓬莱山 目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に 不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ 君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば 千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ 下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ 君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と 国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして 鳥もなかなか驚くようぞ なかりける 「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。 「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。
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