諸文献での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 08:06 UTC 版)
「アレクサンドリアの大灯台」の記事における「諸文献での記述」の解説
大灯台が一部健在であった中世では、通例、アラビア語・ペルシア語の地誌や驚異譚などにおいてアレクサンドリアが紹介される場合は必ず大灯台についても言及されていた。1183年にスペインのムワッヒド朝下のグラナダから地中海を横断してアレクサンドリアで下船したイブン・ジュバイルは大灯台についても言及しており、それによると大灯台は海上から70ミール(約140キロメートル)からでも確認出来たといい、基礎の四辺の1辺は50バーウ(約100メートル)で、150カーマ(人の背丈150人分の高さ)以上だったと述べ、その巨大さに圧倒されたと旅行記で感嘆している。また、13世紀半ばの著述家ザカリヤー・カズヴィーニーも著書『被造物の驚異(en)』(ʿAjā'ib al-makhlūqāt )や『諸国の事跡』(Āthār al-Bilād)などでアレクサンドリアの大灯台が三重構造であったことを図示している。 また中国まで伝わり、南宋の泉州提挙市舶司であった趙汝适による『諸蕃志』(1225年)に次のとおり記述される。 遏根陀國遏根陀國 勿斯里之屬也 相傳古人異人徂葛尼 於瀕海建大塔 下鑿地為兩屋 塼結甚密 一窖糧食 一儲器械 塔高二百丈 可通四馬齊驅而上 至三分之二 塔心開大井 結渠透大江以防他國兵侵 則舉國據塔以拒敵 上下可容二萬人 內居守而外出戰 其頂上有鏡極大 他國或有兵船侵犯 鏡先照見 卽預備守禦之計 近年爲外國人投塔下 執役掃洒數年人不疑之 忽一日得便 盜鏡抛沉海中而去 遏根陀國(アレクサンドリア)は勿斯里國(ミスル エジプトのこと)と同族である。傳承によれば、その昔、けたはずれの徂葛尼(ズルカルナイン アレクサンドロス3世)なる偉人がおり、海にほど近いところに大きな塔を建て、その地下を鑿って雨棟の穴倉をつくり、レンガでびっしり積み固め、一方には食糧を貯わえ、他方には武器をしまった。 塔の高さは二百丈あり、馬四頭が横に並んで三分の二のところまで驅け上ることが出來る。塔の中心部には大きな井戸が鑿たれ、防禦のため堀割をもうけ、大江の水をひいてある。他國の兵が侵攻してくると、國をあげてこの塔に立て籠り敵を拒ぐ。塔の上下にはあわせ二萬人を収容でき、守りを固めたり撃って出たりするのである。塔の頂上にはすこぶる大きな鏡がすえつけられており、他國がもし軍船をもって侵犯してくれば、いちはやく鏡に映し出され、すぐさま守禦の體勢が整うというわけである。近年、ある外國人が塔下にやってきて、數年にわたり清掃作業にあたった。この國の人びとは 彼に疑いを抱かなかったが、ある日突然に隙をみて鏡を盗み出し、海中にほうり込んで逃げ去った。 — 『諸蕃志』卷上 その内容は、勿斯里(ミスル エジプトのこと)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼(ズルカルナイン(双角王))による大塔とその鏡が外国人によって捨てられたというものである。
※この「諸文献での記述」の解説は、「アレクサンドリアの大灯台」の解説の一部です。
「諸文献での記述」を含む「アレクサンドリアの大灯台」の記事については、「アレクサンドリアの大灯台」の概要を参照ください。
- 諸文献での記述のページへのリンク