誕生から軍人の道へとは? わかりやすく解説

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誕生から軍人の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「誕生から軍人の道へ」の解説

大分県竹田市玉来出身であった父の阿南尚と母豊子の間の8人兄弟末っ子として生まれた。父尚は警察巡査として西南戦争抜刀隊として従軍後、内務官吏として転勤繰り返したため、阿南幼少時東京府大分県竹田市徳島県徳島市などを転々としながら育った本籍竹田市置かれている。父尚は阿南剣道弓道馬術など武術小さい頃から教え込み中でも剣道が好きであった阿南小柄な体格ながらかなりの腕前になっていた。 父尚が徳島県参事官就任したため、阿南徳島中学校入学した当時四国善通寺本拠地とする第11師団師団長乃木希典陸軍中将と父尚は知り合いであり、ある日乃木来賓招いて剣道大会開催され阿南小柄な体格ながら、旺盛な気迫上級生相手敢闘しているのを見て乃木上機嫌で父尚に対して「元気があっていい少年だ」と褒めている。そこで父尚が、阿南が前から軍人志望で、陸軍幼年学校受験したいと思っているが、小柄なので躊躇しているという話をすると、乃木は「幼年学校規則正しい生活をさせるし、運動鍛え上げるからすぐに身体大きくなるなるべく早く入学させる方がいい」と早期受験すすめている。阿南乃木の話を父尚から聞くと、小柄なので軍人の道は難しいと心配していたのに、乃木という強い援軍得てこの年受験決意した乃木日清戦争歩兵第1旅団率いて要衝旅順攻略し武名とどろかせていたことや、軍規武士道体現した生活態度明治天皇からの厚い信頼国民から敬愛されており、このときの乃木の姿が今後阿南軍人人生の範となった1900年明治33年9月阿南広島陸軍地方幼年学校入校同期生にはのちに陸軍大将になる山下奉文岡部直三郎山脇正隆がおり、大阪陸軍地方幼年学校入校した藤江恵輔含めてこの年次は優秀と言われることになった阿南中央幼年学校経て陸軍士官学校18期)に入校したが、同期で一番小柄だった体格規則正しい生活鍛錬大きくなっており、身長当時としては長身の1m70達していた。士官学校在学中阿南何度乃木訪ね乃木のかつての武勇伝熱心に聞いて夫人作る稗飯ご馳走になり、ますます乃木への憧れ強まっていった。このときの乃木長年休職経て留守近衛師団長となっており、1904年明治37年)に開戦した日露戦争従軍できないこと悔やんでいたが、のちに第3軍司令官として旅順攻囲戦指揮し、さらに武名高めて国民的な人気博した1906年明治39年1月14日行われた乃木凱旋行進を、阿南一般国民交じり街道並んで見送っている。 1905年明治38年陸軍士官学校18期)920名中を第24席の成績卒業し1906年明治39年)に希望していた歩兵第1連隊配属された。この頃父尚は教科書疑獄事件巻き込まれ参事官休職になっており、阿南一家東京戻ってきていた。兄の惟一は頭脳明晰東京帝大卒業後は外務省入省していたが、自由奔放な性格厳格な父尚や阿南とは性格が合わなかった。惟一は放蕩な生活で借金重ねて性格が合わなくて毛嫌いしていた父尚に支援要請、父尚は既に退官して恩給生活であったため、故郷分の田畑処分してどうにか惟一の債務肩代わりした。阿南は兄惟一のせいで生活に困窮する両親のため、給料全額実家仕送り続けた1912年明治45年阿南陸軍大学校への進学目指した。陸軍士官学校同期親しかった山下甘粕重太郎中島鉄蔵一緒に受験したが、1度目全員不合格であった。しかし、再度受験山下らが次々と合格していったのに、阿南4度目受験でようやく合格となった阿南3度不合格となったのは、頭脳劣っていたのではなく受験時には上官受験配慮から、自由時間の多い陸軍中央幼年学校生徒監のポストにつけてくれたが、阿南はそれに甘えることはなく、生徒たち指導に手を抜くことなかったので、結局は勉強時間足りなくなったことと、慎重な性格から、作戦考査攻撃重視日本軍伝統から、作戦が慎重すぎると評価され点数低かったためとされる合格したときには阿南から指導受けた教え子たち歓声をあげて喜び阿南のために祝賀会まで開いている。陸大卒業席次60人中18番と中の上であったが、4度受験でようやく合格したという話があまりに有名になったので、阿南は「成績悪い男」というレッテルを貼られてしまうことになった後年になって阿南自身も「私は学校成績悪かった」と自称するようになっている1916年大正5年)、陸軍大学在学中阿南竹下平作陸軍中将二女綾子結婚している。竹下阿南歩兵第1旅団時代の上官であり、幼年学校受験準備中竹下長男宣彦の家庭教師引き受けるなど親し間柄であり、綾子ともその頃からの顔なじみで、見合いする必要もなく縁談まとまった結婚したときの年齢阿南29歳綾子17歳であった。のちに次男竹下正彦陸軍軍人となって義兄となった阿南深く関わっていくこととなる。阿南綾子大事にして、演習などで出張する旅先からよく手紙送っている。中には演習先で食べている野戦食献立を図入で書いた手の込んだ手紙や、「演習の野に咲く馬蹄かけまいと」とわざわざ足下の花にまで気を使う阿南優しさ書いた手紙もあった。綾子は、阿南陸軍士官学校同期山下の妻である永山元彦陸軍少将長女久子幼馴染み仲良く阿南山下家族ぐるみ親交深めていった。

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