誕生から蟄居まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:56 UTC 版)
慶長12年(1607年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて誕生。父は徳川秀忠の兵法指南を務めて後に柳生藩初代藩主となる柳生宗矩 。母は豊臣秀吉が若年時に仕えていたことで知られる松下之綱の娘・おりん。同母弟に柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。 元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光の小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に、何らかの理由で家光の勘気を被って蟄居を命じられ、小田原に一時お預けの身となる。 蟄居の原因となった家光の勘気自体は、早くて1年後には解けていた形跡もあるものの再出仕は許されず、その後11年にわたって江戸を離れる。その間の動向について、三厳自身は著作の中で、故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝、目録について研究し、時に祖父の門人を訪ねるなどして、兵法の研鑽に明け暮れていた、と書き残している。一方でこの間、武者修行などで諸国を遍歴していたとする伝説があり、後に多くの講談や創作物の材料となった(後述)。
※この「誕生から蟄居まで」の解説は、「柳生三厳」の解説の一部です。
「誕生から蟄居まで」を含む「柳生三厳」の記事については、「柳生三厳」の概要を参照ください。
- 誕生から蟄居までのページへのリンク