誕生から調所家の養子となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
「調所広郷」の記事における「誕生から調所家の養子となるまで」の解説
調所広郷は安永5年2月5日(1776年3月24日)、鹿児島で生まれた。幼名は良八であり、父、川崎主右衛門の次男であった。生家は薩摩藩主の島津家の菩提寺、福昌寺に近接した堂の前と呼ばれた通り沿いであったと伝えられている。川崎家は鹿児島城下に居住する城下士の中でも最下級の小姓組であった。 天明8年(1788年)、13歳の時に調所清悦の養子となり、名を友治と改めた。調所とは元来、国衙に属する諸税の徴収業務を行う役所名であった。調所家の祖は藤原伊尹であり、伊尹の孫である藤原恒親が調所職など大隅国の官職に就き、その後恒親の子孫が調所職を世襲するようになって、調所を姓としたと伝えられている。近世になって調所氏は島津家の家臣となり、江戸期、本家は中級家臣の小番であった。しかし調所広郷が養子となった調所家は分家筋で、生家川崎家と同様の小姓組であり、無高無屋敷であった。
※この「誕生から調所家の養子となるまで」の解説は、「調所広郷」の解説の一部です。
「誕生から調所家の養子となるまで」を含む「調所広郷」の記事については、「調所広郷」の概要を参照ください。
- 誕生から調所家の養子となるまでのページへのリンク