誕生から辰悦丸の入手まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:01 UTC 版)
「高田屋嘉兵衛」の記事における「誕生から辰悦丸の入手まで」の解説
淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男として生まれる。寛政2年(1790年)、嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた。堺屋は兵庫と因幡や伯耆を結ぶ廻船問屋を営んでおり、既に弟の嘉蔵が奉公に出ていた。 淡路で瓦船などに乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と昇格した。寛政4年(1792年)に所帯を持ち、兵庫西出町に居を構えた。しかし、その後すぐに船を下りて2年ほど熊野灘でのカツオ漁に従事しており、これは北前船を入手するための資金集めが目的だったと考えられている。 寛政7年(1795年)に、兵庫の和泉屋伊兵衛のもとで再び沖船頭として働くようになり、その翌年には、当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の「辰悦丸」を手に入れたとされる。辰悦丸は、嘉兵衛が出羽国酒田(現在の山形県酒田市)で新造したとされるが、若い嘉兵衛がどのようにして建造費を捻出したかが謎とされ、中古船を入手したという説があるほか、島根県浜田市に残された客船帳の入港記録(寛政10年正月4日入津)に和泉屋の屋号が記されていることから、嘉兵衛が兵庫の北風家の助けを得て和泉屋と共同出資したという説もある。
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