西南戦争への従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
詳細は「西南戦争」を参照 明治10年(1877年)2月5日、西郷隆盛は私学校における幹部会議で挙兵を決断する。この情報はいち早く政府側にも伝わったらしく、翌6日の乃木の日誌に陸軍卿山縣有朋より鹿児島にて暴動の形跡があり、警備の内示があった事が記述されている。翌7日には歩兵1個中隊の長崎分派の電命があり、11日早朝に出発させているが、長崎県令から更なる兵力増加の要請が入る。乃木は薩軍に海上から長崎に侵攻する能力はないと判断しこれを拒絶しているが、一方で薩軍の北上を警戒し、久留米に早期に兵力を出すよう熊本鎮台に要請している。 2月14日、鎮台司令長官谷干城の命を受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加。会議では鎮台全兵力をもって籠城する事に決し、乃木は小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16日に熊本を出発して17日夜に福岡に到着、そこで薩軍の鹿児島出発の報を受ける。2月19日、乃木は小倉から前進してくる第十四連隊の各隊を掌握しつつ福岡県久留米(現・同県久留米市)に、21日夜には南関に到達した。2月22日夕刻、熊本県植木町(現・同県熊本市植木町)付近において薩軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたため、薩軍との戦闘に入ったときに乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対して乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった。乃木は寡兵をもってよく応戦し3時間ほど持ちこたえたが、乃木はこの薩軍を応援の政府軍主力を迎撃に出た薩軍の前衛と考え、連隊だけでこれらを突破して熊本城に入城するのは困難と判断。現在地の死守も地形的に難しく各個撃破される恐れがあったので、午後9時頃後方の千本桜まで随時後退することとした。その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、薩軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。薩軍は乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げたという。翌23日には木葉付近で薩軍と交戦しその前進を阻んだが、第三大隊長の吉松速之助少佐が戦死している。この後連隊は更に菊池川右岸の石貫まで後退するが、薩軍を引き付けた事で政府軍の進出を援護する事となり、25日には先方部隊が戦場に到達、歩兵第十四連隊単独での薩軍との死闘は終焉を迎えた。 2月25日夜、歩兵第十四連隊は第二旅団(旅団長:三好重臣少将)の指揮下に入る。26日には第一旅団と共に政府軍は攻勢に転じ、第十四連隊は前衛として出撃、安楽寺山付近の薩軍を撃破し田原坂の上まで進出する。しかし三好旅団長は薩軍の反撃を警戒して乃木に後退を指令、乃木は田原坂確保の必要性を強く意見具申するが旅団長の厳命により田原坂を放棄し石貫まで後退した。田原坂を手放したことで同地は再び薩軍が占領、政府軍は3月20日に再占領するまで17日間の日数と約3000人の犠牲を払い、一日平均銃弾30万発、砲弾約1000発を消費する事になる。 27日、薩軍は攻勢に転じ、左翼より桐野利秋指揮の3個小隊約600名が山鹿方面より、中央に篠原国幹、別府晋介率いる6個小隊約1,200名が植木、木葉方面より、左翼より村田新八率いる5個小隊約1,000名が吉次・伊倉方面よりそれぞれ進撃し政府軍と交戦する(高瀬の戦い)。乃木は桐野率いる左翼軍と交戦し、側面を衝いた野津鎮雄少将率いる第一旅団と共にこれを撃破、桐野は他の薩軍部隊に無断で左翼軍を後退させた結果、薩軍全体が総崩れとなり、西南戦争最大の野戦となる高瀬の戦いは政府軍の勝利に終わる。この戦いは両軍に大きな損害を与え、薩軍では西郷の末弟西郷小兵衛が戦死する。乃木も負傷入院となって前線から退き、久留米の軍団病院に入院する。それでも乃木は3月19日に病院を脱走して前線に復帰、翌20日には田原坂は陥落し、乃木は21日に第一旅団参謀兼務を命じられる。その後も乃木は部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院したにもかかわらず、脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名を付けられた。この時の負傷により、左足がやや不自由となる。 4月18日、乃木は薩軍の包囲から解放された熊本城に入城、22日付で中佐に進級する。乃木は連隊旗喪失を受けて官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、17日付けの「待罪書」を送り厳しい処分を求めた(連隊旗を聖視するようになったのは、西南戦争から日露戦争を経て多くの激戦を経験してからであり、創設まもない当時はまだ連隊旗を神聖視する風潮はなかった)。この時乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図ろうとし、熊本鎮台参謀副長だった児玉源太郎少佐が自刃しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという。 中佐に進級した4月22日、乃木は熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れた。以後は補給などの後方業務を担当するが、8月の可愛嶽付近の戦闘では直接第一線の指揮を執っている。
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