西南戦争へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:50 UTC 版)
滞在時、鹿児島は多くの不平士族によって軍事独裁制による独立国家の様相にあり騒然たる状況にあった。同年10月、長連豪が金沢に帰県した直後、廃刀令を不満とした神風連の乱、政府の開明政策に反対した秋月の乱、不平士族の反乱である萩の乱が続け様に勃発した。 さらに1877年(明治10年)2月、連豪が金沢に帰った4ヶ月後に西郷を押し立てた薩摩士族による西南戦争が起こった。島田は、長を誘い忠告社を決起させるべく奔走し案じた陸も忠告社への斡旋と無党派層への大同団結を呼びかけたが、忠告社の決起は虚しく潰え全て水泡に帰した。 なお、西南戦争勃発時、石川県では旧藩主の前田斉泰・前田利嗣の連署状にて旧重臣家に対して旧家臣の自重を促すように説得するようにとの依頼があった。当時、忠告社に好意的であった薩摩出身の県令・内田正風が辞職し代わって県令・桐山純孝と長州人の権参事・熊野九郎が就任したが忠告社を嫌い多くの社員が石川県より下野し忠告社は力を弱めていった。その間に熊本城を包囲していた西郷軍が敗退し優位に立った官軍は九州の関門である門司を始め主要な道中を塞ぐに至り、石川県からの挙兵応援の時期を失した。他方、石川県下では第七連隊が政府側の応援として戦闘に参加するために九州に向かった。又、政府の新選旅団募兵に対して旧藩主が旧臣に奮起を促したところ千人余りの応募者があった。 忠告社が不遇のままにも関わらず彼らは島田らのように決起に踏み切れない優柔不断さがあった。それは幕末に於ける加賀藩の対応に一脈通じるものがある[要出典]。
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